悪い遊びと良い遊び

 数多ある遊びを仕分けするための物差しには、いろいろなものがある。時間で考えると昼 の遊びと夜の遊び(夜遊び)があるし、場所で考えると家の中の遊びと外の遊びがある。そのほかにも、お金のかかる遊びとかからない遊び、一人でする遊びとみんなでする遊びという区分けもできる。しかし、様々な区分けの仕方の中でいちばん世間の関心を集めるのは「良い遊び」 vs 「悪い遊び」という分類だろう。

 特に、子どもたちの遊びが話題になるとき、親や保育者や学校の先生が持ち出すのが、この「良い―悪い」の物差しである。「遊びは大切なものです」、「遊びの中で子どもは成長していきます」、「良く学び、よく遊べ」―これらは、親たち先生たちの常套句だが、それは決して無条件に、遊びならなんでもかんでもオーケーというわけではない。推奨されるのは「良い遊び」だけであって、悪い遊びはイケマセン、遊びたいなら良い遊びを遊ばなくては なりません、良い遊びが良い子を作るのです、悪い遊びにはまったら、問題児になり、劣等生になり、 不良(この言葉は最近あんまり聞かないが、要するに悪い奴)になってしまいます。親や先生たちが認める、良い遊びを楽しみなさい―子どもたちは幼いうちからそう言わ れ続けてきた。

 よい遊びを遊ぼう、それならどんな遊びが良い遊びなのか。それを知るためには、その反対の「悪い遊び」を考えてみるのが一番だ。では、どんな遊びが「悪い遊び」なのだろうか。まず思い浮かぶのが石を投げたり棒きれを振り回すような他人を傷つけそうな遊び、建物や崖をよじ登ったりする危険な遊びだ。これには真っ先に親や保育者から「アブナイからや めなさい!」と金切り声が飛んでくるに違いない。また、泥んこ遊びや砂の掛け合いとか犬の糞を見つけて棒で突っついたりする汚い遊び、今どきのママたちは髪を逆立てて禁じる だろう。次いでスカート捲りとかパンツの引き下ろしみたいないやらしい遊び、これも先生から大目玉を食らいそうだ。さらに、遊んでいるうちにけんかになったり、遊びの中で誰かを標的にしていじめたりすることも よくある風景だが、そういう場面は「悪い遊び」として大人たちに叱られることは間違いない。

 要するに大人たちが遊びに要求するのは、①安全であること、②きれいであること、③よい子であること、この3条件に集約できるだろう。これらの条件にかなうなら、元気に遊び なさい、どんどん遊びなさい、というお許しがでるのである。子どもたちとしては、それらを受け入れれば遊べるのだから「はい、そうします!」と請け合って遊び始めるのだが、夢中になって楽しく遊んでいると、言われたことなど忘れて、必ずこの枠を突破してしまうのだ。遊んでいるうちに、もっと面白くしよう、やったことのないことに挑戦しようという「遊び本能」が前に出てきて、安全とか清潔とか「よい子」なんてことは考慮の外にはじき出さ れてしまう。遊びの原動力は楽しく面白いことを求め続ける人間の「快楽原則」に深く根差している。それは大人たちが社会統制のためにつくり上げようとする「現実原則」をたやすく突破してしまうのだ。

 大人たちの言う「悪い遊び」は何といって大人たちの言う「悪い遊び」は何といっても面白い。高い木の上によじ登ってはるかに下も面白い。高い木の上によじ登ってはるかに下界を見下ろすときの界を見下ろすときのちょっと怖いような達成感ちょっと怖いような達成感、急な崖を滑り落ちそうになりながら必死、急な崖を滑り落ちそうになりながら必死に登っていくときのスリル、どろんこに踏み込んで自由勝手に歩き回るときの解放感、友だに登っていくときのスリル、どろんこに踏み込んで自由勝手に歩き回るときの解放感、友だちと泥をぶつけ合って互いに泥まみれなって大笑いちと泥をぶつけ合って互いに泥まみれなって大笑いの楽しさの楽しさ、女の子のスカートをめくっ、女の子のスカートをめくって「きゃあ」とて「きゃあ」と大声大声ををあげあげさせるさせる時のちょっと後ろめたいような時のちょっと後ろめたいような快感快感―でも女の子たちも―でも女の子たちも案案外面白がって外面白がっているのかも。ともかくこれらの楽しさに比べると、大人のいう「よい遊び」ないるのかも。ともかくこれらの楽しさに比べると、大人のいう「よい遊び」なんて面白くもなんともないんて面白くもなんともない、、遊びの抜け殻、楽しさのカスのようなものだ。遊びの抜け殻、楽しさのカスのようなものだ。

 快楽原則の追求としての遊びは、それが子どもたちのエネルギーを集める限り、必ず大人の制止=社会の壁に突き当たる。その壁に跳ね返されたり、しゃにむに乗り越えたり、抜け道を探したりしながら、子どもたちは成長=社会化していくのである。 悪い遊びはその過程を体験させてくれるまたとないチャンスなのだ。子どもが子どもらしくあり続けるなら、悪い遊びはなくなることはないし、なくなってはならない。

 世の常識は、善と悪について間違った捉え方をしている。善と悪は同じ平面に対になって並んでいて、善を取るか悪を取るかという選択は、右へ行くか左へ行くかを選ぶことと同様の別れ道だと多くの人は思っている。そうではない。善と悪は同じ平面にあるのではない。手前にあるのは悪だけである。その悪の中を通り抜けた向こうに初めて善が現れるのだ。悪を体験しない「善人」などというのは何の役にも立たないデクノボーに過ぎない。悪の快楽、悪の利得、また 悪の 辛さと 悲しみと格闘した 先に開けるもう一つの世界―そこにたどり着かないとほんものの善と出会うことはできない。


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