余暇と平和と酒と女

 この2年余、コロナ禍が世界の平穏を乱し続けているところへ、今年はウクライナとロシアの理不尽な戦争が追い打ちをかけた。プーチン帝王を追い詰めれば核のボタンを押しかねないというのでは、夢も希望も打ち砕かれそうな暗澹たる気分である。永年、余暇と遊びの研究者を自称してあれやこれやと活動してきたが、こんな状況下で「遊び」とか「余暇」にできることはあるのだろうかと自問自答せざるを得ない。世界の危機に臨んで「余暇や遊び」なんてものはクソ役に立たない無用の長物・・・いやいやそんなことはない、余暇と遊びこそ、戦争を抑止し、平和を実現する真の力である!この結論を前に押し立てて、しからばいかにしてそれが可能なのかを論証してみよう。

《国際観光》

 まず一つ目は「観光」に注目しよう。それも国際観光の存在価値である。移動する余暇=観光は、文化的にも経済的にも世界を結びつける重要なチャンネルだ。国際観光はどの国においても外貨を稼ぎ出す重要な輸出産業であり、日本もコロナ以前には3000万人に迫るインバウンド(入国)によって5兆円に及ぶ貿易収入があった。コロナでこれが一気に雲散霧消し、旅行関係者は大打撃を受け続けている。老舗の日本旅館が倒産したりして、古き良き日本を経済的に支えていたのが我々ではなく外からのお客様であったことが露わになった。途上国の中にはコロナ禍による外客の激減で国家財政が破綻しかかっているところさえあるのだ。

 国際観光は何よりも世界の平和を前提にしている。誰も戦争の現場などわざわざ見に行こうとは思うまい。世界の憎まれ役を一手に引き受けているロシアには、コロナが多少治まってきた感のある中でも、よほどの物好き以外は誰も訪ねる気がしないはずだ。これは必ずロシアの貿易収支を悪化させ、戦争の継続に反対する力になるであろう…あってほしい。

 国家間の経済格差が広がっている世界の現実の中で、国際観光は所得の平準化という役割も果たしている。先進国の人々は「貧しい国」を訪ねてじゃぶじゃぶお金を使うことが務めであるともいえる。それによって多少なりとも途上国の経済発展に寄与することになるはずである。とはいえ、ここには国際観光の大きな落とし穴があることを忘れるわけにはいかない。ドルや円やユーロなどの強いマネーにものを言わせて、訪ねた先で気まま勝手に遊びまくり(その典型が買春観光)、その地の自然を台無しにしたり、伝統ある地域社会を破壊したりするという事実があるからである。もともと国際観光なるものは欧米先進国の「植民地主義」に根っ子を持っている。征服した東洋の国々の珍しい風物に魅せられた人々が「オリエンタリズム」とか何とかと言い立てて、それが一般人にも広がったのが国際観光の偽らざる姿であった。これは克服されるべき国際観光の負の遺産である。

 観光が平和の力になるためには、従来の「物見遊山」型、さらには「旅の恥は掻き捨て」型の観光ではなく、滞在型・交流型の観光を振興する必要がある。はるかに遠い国の独自の文化に触れてその落差を楽しみながら、文化は違っても変わらぬ人間性を確認しあうことで、市民と市民の、ひいては国と国とのパートナーシップが高まるのである。その点では、若い世代の異文化体験を促進することを教育政策の一環に組み入れるべきだろう。高校・大学の段階で、必ずどこか外国に留学して(日本では特に韓国や中国など隣国を重視したい)その国の言葉と文化、歴史と社会について勉強してくる制度を汎世界的に整えることはできないだろうか。若者たちの滞在費用はお互いに持ち合うことにすればそれぞれの国の負担も小さくなる。若いころから他の国々を肌で体験しておくことは過剰なナショナリズムを予防する効果があるはずだ。そうなれば未来の世界の平和を若者たちに委ねることができるだろう。

《酒》

 さて、二つ目に、遊びと余暇と言えば「酒」である。酒を楽しむことこそが余暇のしるしであり、仕事中に飲酒したらたいていはクビになるわけで、酒は余暇世界の専売特許なのである。そして酒こそは平和の象徴であるということだ。酒は人々の平等な「宴(うたげ)」の場をつくる。酒が回ってくれば、上司も部下もない、金持ちも貧乏人もない、日本人も外国人もない。酒は人間をあらゆる束縛から解放し、現実を忘れさせ、I'm OK,You’re OK(俺もやるけどお前もやるね)の世界を創り出す。酒による酩酊によって誰もがおうようになり、寛大になり、お互いを近づけ、現実を乗り越えられる。そして最後に、酒は禊(みそぎ)であり祓(はら)いでもある。酒は聖なるものへの通路であり、神を讃えるにはキリスト教でも神道でも酒は欠かせない(イスラム教はちょっと違うか)。人間を超えるものを実感させてくれるのが酒の効用と言える。世界を繋ぐ酒文化の創造こそ平和を導き寄せる力になる。ワインでもウィスキー日本酒でも焼酎でも、みんな一緒に大いに飲もう!。

《女》

 酒と言えば女である…などというとフェミニストの皆さんに叱られるかもしれない。ここで三つ目に挙げたいのは、余暇における「女」ならぬ「女性性」ということだ。これは特定の特徴を特定の性別に割り振るという意味ではなく、男性の中にも女性性は当然存在する。心理学者のユンクが述べているように、われわれはだれもアニマ(女性の魂)とアニムス(男性の魂)の合成物なのだ。キリスト教では聖母マリア、仏教では観音様、日本神話でも天照大神、これらに見るように「女性性」は洋の東西を問わず人々の崇拝を集めてきた。生命と愛と平和への希求こそが「女性性」の本質なのである。「男性性」は歴史を通じて戦争ばかりしてきたが、戦争が永劫に続くわけではなく「女性性」が戦争を押しとどめ、結局は平和が達成されてきたのだ(しかし、時が経つと平和が破られてまたまた戦争になるのだが)。

 古典ギリシャの喜劇作家アリストパネスに『女の平和 リュシストラテー』というたいへん楽しい作品がある(岩波文庫)。時は紀元前5世紀のギリシャ、アテナイとスパルタの男たちは戦争に次ぐ戦争を繰り返していた。業を煮やした両国の女たちは、示し合わせて家から脱走、オリンポスの神殿に閉じこもってしまう。家事も育児も放り出し、そして何より大切なセックスを拒否された男たちは、女たちに家に帰るよう懇願するが、女たちは「あんたたちが戦争をやめない限り帰らない」と一歩も譲らない。とうとうアテナイに使者がやってきた。「おいどんは使者でごわす、スパルタより和睦の儀で来申した」―訳者の高津春繁東大教授(学生時代のわが言語学の先生)はスパルタ方言を薩摩弁で訳したところがしゃれている。使者は大きなマントを着て盛り上がる前の部分を必死に隠そうとしている。見ればアテナイ側の戦士たちもみなご同様だ。観衆たちが大笑いに笑ったことが想像できる。かくして平和が実現し、全員が声をそろえて「寛い心のこの和平、未来永劫忘れることのないように。アラライ、イェー、パイエイオーン」と歌うのである。実に愉快な喜劇だが、現実はそこから2500年も経っているのに永続する寛大な和平はいまだ実現していない。愚かなるかな、男どもよ。

 しかし、女性たちも戦うことができないわけではない。2015年にノーベル文学賞を受賞したウクライナ生まれの女流文学者スヴェトラーナ・アレクシェービッチの『戦争は女の顔をしていない』を読むと、ナチスに攻め込まれたスターリンが「祖国防衛」を大義に掲げて100万人もの女性兵士を前線に送り込んだことが書かれている。彼女らはみな全身全霊を上げてドイツと戦い、中には優秀なスナイパーとなって50人ものドイツ兵士を打ち倒した女性もいる。問題は戦争が終わった後である。男どもは戦場の残虐行為も目を覆う惨状も忘れたかのごとく得々とおのれの戦功を誇り合うのに対して、女性たちは兵士であったことをひた隠しにして生きるしかなかった。何十年も経ってから著者のインタビューに応じて重い口を開いた元兵士の女性たちは交々、戦争の理不尽と暴虐と悲惨を激しく告発している。

 どうやら戦争には「国家」という存在が重くのしかかっているようだ。イギリスの女流作家で鋭い社会批評で知られるヴァージニア・ウルフの言葉が思い出される。

  • 女として私は祖国を持たない。
  • 女として私には祖国はいらない。
  • 女として私の国は全世界である。

《ナショナリズムからローカリズムへ》

 戦争をするのは「国家」である。個人はもともと人を殺したくなんかないのだ。殺すことが悪の極みであることを誰でもわかっている。殺せば当然罰せられる。ところが国家は平気で戦争を起こし、他国人を殺せば賞賛を与え、たくさん殺せば勲章を授与する。国家こそが戦争の原因であり平和を破壊する元凶なのだ。私たちは安易に国家と自分を同一視させようとするナショナリズムの風潮を警戒しなければならない。国家の呪縛から自由になること、そのために国家を相対化する視点や姿勢、行動を持つことが大切なのだ。

 余暇や遊びは自由な個人の根拠地であり、余暇や遊びを持つことの意味は、非人間的な労働や理不尽な抑圧からの解放にある。その究極の目標は、自由な個人を確立し、国家に依存するのではなく、国家を越える自由な連帯を組むことである。この思想は「あらゆる支配に対抗する」という点で《アナキズム》と呼ばれている。アナキストというと無益なテロ行為に訴える破壊主義者だという偏見が行きわたっているが、アナキストの代表みたいなピョートル・クロポトキンの主著は『相互扶助論』であり、個人と個人の助け合いが社会を作っていくのだという主張である。日本を代表するアナキストというべき大杉栄が大正時代に情熱をこめてこの本を翻訳し紹介している。大杉は関東大震災のどさくさに紛れて憲兵隊に惨殺されてしまうが、なんとも自由奔放で思いやりがあって愉快で楽しい《遊びと余暇の人》であったことがその『自叙伝』を読めばわかる。かつての日本社会はこういう自由人の存在を許すことができなかったが、果たして現在はどうなのだろうか。

 国家を相対化する根拠地は《地域》にある。ナショナルに対抗できるのは《ローカル》である。かつての地域社会は見る影もなく破壊されてしまったが、コロナ後の社会の再建という文脈の中で、改めて地域の人々とのコミュニケーションを求め、利益ではなく文化や道義によってつながる場所と時間を確保して行きたいと思う。それには自分の余暇や遊びをレジャー産業などに売り渡さずに、地域社会の中で組み立て直していくことだ。おしゃべりでもゲームでもスポーツでも音楽でも趣味でも酒でもいい。余暇と遊びの材料はいくらでもある。

 《ローカル》は決して孤立してはいない。ローカルは近くのまた遠くの、国内だけでなく各国のローカルと国家を飛び越えてつながることができる。さまざまな領域の、さまざまなレベルのローカルが重層的なネットワークを幾重にも結び合うことで、国家による分断を凌駕した「地球人」の連帯を実現できるはずである。それこそが未来永劫に続く平和の礎(いしずえ)となるのである。

 万国の遊び人・余暇人 連帯せよ!

2022年9月 薗田碩哉


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