【つぶやき】
大学で「余暇」の付く講義は少なくなっているが、私たちの生活にとっては身近な存在の はずだ。
「休み」は近年もベストセラーになっているテーマであり、余暇について考えたいひとが 多いことは想像に難くない。
とはいえ、余暇は教える/教わるものなのか。
そのこと自体が論争になり得るポイントであって、余暇のもつ自由はどのようにすれば実 現できるのか、それぞれが考えることから始めたい。
【コメント】
これまで2回のつぶやきでも説明されていたように、日本では「余暇」の付く講義は減 ってきている。余暇的な内容をあつかう授業は、おそらくいくつかの大学に存在している のだが、一般的な科目とはいいがたい。「生活」や「ウェルネス」といった言葉に置き換 わられながら、生き残っている状態だ。そもそも余暇単体の学会が存在しないことが大き く影響していると想像できる。実際にはレジャー、レクリエーション、趣味、文化など余 暇にまつわるテーマを含むあつかう学会は多数存在しているが、余暇だけで独り立ちはし ていない状況になっている。それが余暇の面白さを体現しているともいえる一方で、研究 的な基盤としては弱いと言わざるを得ない。私は「ウェルネスサービス」に関する授業を 担当しているが、ここではスポーツジムや健康産業、健康政策が具体的には想定されてお り、残念ながら余暇ど真ん中というわけではない。
先日、授業のアイデア集めのため書店に寄り道したところ、「休養」についての書籍が 目についた。また「休み方」についても、多数の書籍が出版されている。働き方改革以降 、私たちはどうも働きすぎらしい、ということが広く共有されるようになった。「過労死 」という言葉が使用されはじめてからずいぶんと時間はかかったが、「過労死」が特別な ことではないと認識されるようになったということだ。また週休3日制の議論が出てきた ことで、労働時間を短縮できた先に「自分は何をしたいのか」という悩みが出てきたよう だ。
「余暇にやりたいことは何か」というのは、実は新しい問いではない。例えば國分功一 郎は『暇と退屈の倫理学』のなかで、17世紀のフランスの思想家パスカルの議論から、退 屈についてこれまでにさまざまな論点が提示されてきたことを説明している。「余暇時間 が確保できたところでやりたいことはあるのですか?」という質問も想定できるのだが、 そもそも、余暇に何をしたいのか悩む「時間」や「余裕」が確保されていないと、その悩 みに到達もできないのだ。
私の考える余暇に関する講義というのは、「効果的な余暇の使い方を紹介する」ことや 「余暇の活用方法を指南する」のではなく、余暇がひとびとの暮らしの中でどのように存 在し、その点についてこれまでどんな議論がおこなわれきたのか、それを踏まえて自分は どのように余暇をとらえ、生きていくのか、地道に丹念に考えていくものである。「コス パ」や「生産性」が高く評価される現代で、この講義の重大性を伝えるのは非常に難しい ことだ。しかし、ときにはさまざまな形に「擬態」しながら、余暇にまつわる思考を深め 、ともに考える仲間を増やしていきたい。
《執筆:ヒメ》