【つぶやき】
「自由」というのは、哲学的な言葉でもあり、様々に議論されてきた。
なにごとにも妨げられずに行動できる自由。
自分の意思で自律的に生きる自由。
選択の可能性は自身に委ねられるという自由。
余暇はまさに自由な時間。私たちは、余暇に自由を体現できているのだろうか。
【コメント】
前回のジイのコメント通り自由こそ余暇の神髄だ。
拘束からの解放。時間でいえば、仕事や家事、義務や生活維持の活動から解放される自由な時間がまさしく余暇だ。
また、外部からあるいは他者から制約を受けない自由。最近は余暇活動も、ジェンダー や世代、地域の制約を受けずに楽しむ姿を見ることが多くなった(もちろん、経済的制約があることも忘れてはならないのだが)。8月、いわゆる「夏の甲子園」が始まる前、同じく甲子園球場で行われる女子高生の野球の試合を見たが、男子と遜色なくプレーしている彼女たちは、本当にいきいきと輝いていた。今やスポーツの種目に男女の差はほとんどない。
余暇活動に世代の制約も少なくなってきている。私はSNSで、シニアのチームダンスの動画を見るのが好きなのだが、彼ら彼女らは、年甲斐もなくなんて言葉を微塵も感じさせない機敏な踊りを披露し、全身で表現を楽しんでいる。
余暇には「干渉されない自由」があるからこそ、その可能性を大切にしたいというのは 、われわれ日本余暇会の主張の一つである。
余暇には何もしない自由もあるが、どう使うかという活動の質は、満足感や幸せ感にもつながる。これは余暇の質の良し悪しを論じているのではなく、自分自身の自由な心の場として活動の可能性を広げることを言っている。
余暇哲学の出発点となるアリストテレスは、余暇は人間の最高の生を実現するための時間と捉えていた。労働は生きる為に必要な手段であるが、余暇は生きる目的そのものだ。それは思索や哲学、芸術、友との対話など自由な精神活動の場だった。労働も社会的状況もギリシャ時代と現代とでは全く異なるが、このコラム「つぶやき余暇」も、「余暇をどう生きるか」、さらにいえば「自分を生きる自由とは」という問いが根源にあるのだ。
話は変わるが、今、私たちはどんなときに「自由」を感じているだろうか。社会や権力からの対抗的な自由というよりは、身近な日常の束縛からふと抜け出す感覚や、自分自身に納得し自分を肯定できる世界を感じるとき、無理をせずに楽にいる自由だろうか。
あるいは余暇の自由として、スマホの電波の届かない山奥の自然に身を置いて日常を忘 れているとき、人との出会いや交流の優しさに穏やかにも心の自由を感じているとき、物語の世界に浸り、想像を膨らませて妄想しているとき、NASAの宇宙の映像を眺め、悠久の時間を感じているとき、趣味に没頭し時間を忘れてしまっているときなどだろうか。
そんな私たちに、自由の制約や阻害が迫ってきていることも忘れてはならない。加速する情報化社会だ。情報は選択肢と選択の自由を与えてくれ、表現の場を広げてくれた一方で、知らず知らずのうちに、選択履歴のトラッキングによる押しつけ、情報への依存が進んでいる。AIが話し相手になる日も近い。我々が求める自由が、知らず知らずに小さくなっていく。余暇が受動的な消費に支配されないように、自由を守る意思やリテラシーに加えて、自らの主体的な行動が大事になっていくだろう。
《執筆:マダム》