#106 余暇学 その1(2025年6月4日)

【つぶやき】

お金が動けば経済学、法律があれば法学、病気になれば医学があるという具合で、世の人々が関心を持つテーマには、それぞれの「学」があるのが当たり前。

昨今は漫画学やお笑い学も大学で講じられているらしい。

余暇も生活上の大事なテーマのはずだが、「余暇学」というのはあんまり聞いたことがない、どうして。

【コメント】

 実は、かく申す《じい》は、現役時代は「余暇学」のセンセイであり、本拠地の短大やあちこちの大学で余暇学を講じていた。だから日本にも「余暇学」があることはあるのだが、圧倒的にマイナーで、その存在はほとんど知られていない。余暇研究をする仲間たちと「日本余暇学会」なる学会を作って長いこと活動し、ちゃんと日本学術会議のメンバーにもなっていたのだが、研究者とは言え本来のテーマがあって片手間でやっているか、在野の研究者で所属の研究機関を持っていない会員ばかりだった。日本の大学では、余暇はまともな研究課題として認知されていないのである。
 こういうと多くの読者は、まあ、テーマが余暇なんだから、余ったヒマの研究なんだから、そんなのはヒマがたくさんある人がやればいいので、大学の必須科目にならないのは仕方ないんじゃないの、と思われるかもしれない。確かにこの国ではそれが常識かもしれないが、外国に目を向けてみると、ところがどっこい、余暇はなかなか重要なテーマで、「余暇研究」の科目はもちろん、余暇に関わるさまざまな研究科目を集めた余暇学科、さらには余暇学部さえあるところもある。世界の余暇研究者が2年に1回、世界各地で開いている「世界余暇会議」は、欧米圏はもちろんアジア、アフリカの「余暇屋」さんたちが結集する大集会である。私もかなり昔に一度参加したことがあるが、(韓国・春川、2005年)、世界中の余暇教授が500人も勢ぞろいして余暇のさまざな領域について熱い討論を繰り広げていた。

 「余暇学」が成立するかどうかは、結局のところ、その土台である「余暇生活」がどれほど国民生活上の重要問題として認識されているかにかかっている。かつては「勤倹力行」が徳目とされ、それを体現した二宮金次郎の石像が小学校の校庭に建っていたものだが、金次郎は忘れられても、働くこと第一優先(したがって余暇は第二、第三…ずっとあと回して忙しければ無くてもよろしい)という心情は昭和時代を貫いて、しっかり継承されてきた。平成期の失われた20年、30年を経過して、その辺の価値観はだいぶん変化をきたし、働き一辺倒への懐疑は拡がってきたとは言え、だからと言って「余暇」に脚光が浴びせられる様子はない。
 余暇の一分野たる「観光」や「ツーリズム」についてだけは、インバウンド3千万人時代が到来して一躍関心が集まり、研究・教育面から見ても、観光学科やツーリズム学部みたいなのが雨後のタケノコのように叢生し、今や観光関連科目のない大学の方が少ないくらいな繁盛ぶりである。確かに観光も余暇行動の一つだから、大きくみれば余暇学の隆盛ともいえるのだが、でも、観光学の中で、その一番の土台であるはずの「余暇」についてどんな論議がされているかというと、まことに寥寥たるものだというのが〈ジイ〉の実感である。

 そんなことをぶつぶつつぶやいていても大して意味がなさそうだ。そこでここはいちばん老躯に鞭打って最後の戦いに撃って出ることにした。「余暇」なるテーマを掲げて、自分が何をしてきたのか、何ができたのか、できなかったのか、自らの余暇学の棚卸しと総点検を行い、再度、余暇から見た人間生活と社会の組み方についての提言を試みたい。

 毎月4日―すなわちこの「つぶやき」の月例第1弾が出る日を「余暇の日」と定め、薗田碩哉の余暇講座というものを日本余暇会の支援を受けて立ち上げる。本日、6月4日が第1回、次いで7月4日、8月4日…と曜日に構わず続けることにした。ジイのつぶやきを皆さんと共有し、軽薄にして深淵な余暇談義を目指したい。関心をお持ちの余暇学徒のご参加を切に願う次第です。 

《執筆:じぃ》

「薗田碩哉 最後の講義 ―希望の余暇―」(毎月4日20時ZOOM配信)
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