#097 子どもの遊び その1(2025年3月4日)

【つぶやき】

おとなの余暇のルーツはこどもの遊びにある。
子どものころに子どもらしく、のびのびと自由に遊びまくることが大人の余暇力の基礎を作る。
ところが、この子どもの遊びが今や深刻な危機に直面している。
子どものおおらかな遊びが大人によって妨げられている。
子どもが遊べていない。遊んでいるようでも、それは押しつけられた遊びだったり、管理された遊びだったりする。
それでいいのか。

【コメント】

 この欄でも以前に取り上げた「散歩」は、余暇を代表する活動の1つだ。散歩には、自由な気分が満ちているし、また、思いがけない発見が得られたりして、なかなか創造的な要素もある。散歩は、リタイアして毎日が日曜日という、かく申す「じい」のような有閑人の専売みたいに思われている。実際、われわれの世代で散歩を日課にしているご仁は少なくない。中にはかの哲学者のカント先生のように、毎日決まった時間に、決まったコースを悠然と歩くことに決めている方がいて、その時間にそのあたりを歩くと決まって出会ってあいさつを交わす方もおられる。
 だが、散歩は高齢者に限らない。もっとずーっと若く、若いというより幼い子どもたちも「おさんぽ」が好きである。もうじき3歳になる同居の孫娘は「おさんぽにいこう」というと、大よろこびでじじ・ばばと一緒に出かける。彼女の「おさんぽ」は勝手気まま、あっちに歩いたり、こっちで走ったり、地面にかがんで石を拾ったり、同じく散歩の犬に興味を示したり、まったく定まらない、ブラウン運動のような動きである。じじ・ばばは、ひたすら忍耐強く彼女の気ままに付き合う。それが子どもの「おさんぽ」であり遊びなのだ。

 どこの幼稚園を覗いても「おさんぽ」が日課になっている。朝の10時ごろに公園の周りを歩いていると、幼稚園や保育園のいくつもの「おさんぽ組」に出くわすことが多い。ただ、それらのおさんぽは、保育者に率いられて(つかまりどころのついた長いロープをつかまされて、数珠つなぎにになって歩いているのもいる)整然と進む「幼児の行軍」みたいのが多くて、いささかがっかりさせられる。子どもたちはおとなしく歩いているが、少しも楽しそうでない。
 これを観て、ある映画の1シーンを思い出した。ミヒャエル・エンデの『モモ』の映画版である。それまで自由勝手に、想像力豊かに遊んでいた子どもたちの所に、人々の時間を収奪・管理することを目指す「灰色の男たち」がやってきて、それまで長閑に暮らしていた人々に、寸暇を惜しんで働くことを迫る。子どもたちも集められて制服を着せられ、街中を隊列を組んで歩かされる―このシーンが幼稚園の「おさんぽ」にそっくりなのだ。

 じいが昔々やっていた「さんさん幼児園」の「おさんぽ」は、そんなものではなかった。初めこそ2人ずつ手をつないで、列になって進んでいくのだが、お山の道に入っていくうち、列は乱れ、どんどん先に行ってしまう子もあれば、渋滞して動かない子らも出て来て、子どもたちは自由勝手に「散開」してしまう。これを羊の群れを追う牧童のように、何とか追い立てて目的地を目指すのが保育者の役割だった。

 散歩の散は「ちりぢりバラバラ」のことである。一つにまとまるのではなく多数に分散し、秩序は壊れ、統制は雲散霧消する、つまりエントロピーが増大するのである。そして、そこには解放感と自由の感覚に支えられた独特の楽しさが生まれる。それこそ「遊び」のエッセンスというべきだ。そして、その自由の中から、子どもたちのうちに、新たな遊びの芽が育ってくる。みんなで何をするか相談して、じゃんけんして、鬼を決めて鬼ごっこ、という風に、遊びらしい遊びが組織されてエントロピーが減少するのである。このダイナミズムこそ子どもの遊びが本当に遊びになる条件と言える。今の幼稚園の「灰色の男たち」風の管理は子どもの遊びの一番大切な要素を圧殺している。

 エンデのお話では、主人公の少女・モモの大活躍で、灰色の男たちは次々と煙草の煙になって消えていくのだが、現在の日本の中で、モモはいったいどこにいるのだろう。

《執筆:じぃ》


Contact Us

東京都日野市百草1002-19
info@yoka.or.jp

Top