【つぶやき】
お祭りは地域の歓びである。
同じ町に生きて暮らしていることを老若男女が共々に祝福しあうことが祭りの要諦である。
昨今、祭りが衰退したり消滅したりするのは地域社会の力が落ちてきていることの何よりの証左だ。
祭りを取り戻すことは地域を取り戻すことに直結している。
【コメント】
子どものころの夏祭りの興奮は今でも生き生きと思い出すことができる。私の生まれ育ったのは東海道は神奈川宿(横浜市神奈川区)の近くで、お祭りは神奈川宿の真ん中にある熊野神社、例大祭は8月の夏休みの真ん中ごろだった。幼童のころは町で所有していた一台の山車を行列を作ってみんなで引っ張るのがお役目。青い法被を着て足袋はだし、真っ白な鉢巻をキリリと締めて背中には花笠を背負い、お化粧?として鼻の真ん中に白粉で真っすぐに線を引いてもらう、これは妙に恥ずかしかった。
自分の町から出発して、わっしょいわっしょい声を上げて世話役の大人たちと山車を引き、隣り町を通りかかるとそこには神酒所(みきしょ)という仮設の御休み処があり、どぎつい色のついた飲み物が配られ、お菓子がもらえるのが楽しみだった。
少し長じると子ども神輿を担ぐ段になる。こちらは小ぶりながら本格的な神輿で、てっぺんに付いている金色の鳳凰が美しい。担ぎ棒を交差させて通して、みんなでそれに取り付いて担ぎ上げる。まだ背丈が小さい子もいて棒が肩に届かず、ほとんどぶら下がっているだけのようなのも交えてわっせわっせと担ぎまわる。子どもながらにだんだん興奮してきて、大声を張り上げ、力任せに神輿を押し上げるので、神輿は右に行ったり左に行ったり縦横に動き回る。男の子はみんな、女の子は担げない神輿を担ぐのを誇りにしていた。
だが、本物の神輿はそんな生易しいものじゃない。きんきらきんのきらびやかな装飾が散りばめられた大きなお堂に絢爛豪華な屋根が乗り、百貫神輿と言われていたから400キログラムぐらいの重さはあったのだろう。それをふんどし一丁に腹巻を締めただけの、上半身裸の屈強な数十人の男たちが担ぐのである。その掛け声の勇ましさ、その動きの激しさは、子ども心にはほとんど恐怖であった。広い市電の通りを右の端から左の端へジグザグに練り歩くので、市電もバスも、そんなに多くはなかった自動車もみんな停止して、神輿が荒れ狂うのを見守るほかはなかった。
いくつぐらいの歳だったか、家の前の通りへ出て、はるか向こうからやって来る大神輿を見守ったことを覚えている。男どもに担がれて大きく揺れながら近づいてくる神輿の周りには群衆が取り巻いていて、その人の塊が少しずつ、こちらにやってくる。見れば神輿の上に誰かが乗っている。担ぎ棒の上に足を踏ん張り、神輿の屋根に取りついて大声をあげている。白い足袋を履いてはんてんを羽織り、腹に巻いた白い帯が胸のところまで持ち上がっている。髪は丸めて頭の上に載っている。女の人だ!とわかって驚いた。子ども心にもとてもきれいな人だと思った若い娘で、何ともかっこよく神輿に揺られて進んで行った。
暴れ神輿が店になだれ込んだのを見たこともある。うちの町内の八百屋の店だった。店先に台を並べていろんな野菜が並んでいたのだが、神輿はそのど真ん中に乱入し、野菜を台ごと弾き飛ばし、神輿の一角が店の柱に激突した。ずいぶんと恐ろしい光景だったが周りの群衆はやんやとはやし立て、神輿は八百屋の店先をめちゃくちゃにした後、歓声を上げながら通りを先に進んで行った。町内の訳知りのおじさんが教えてくれた。「あの八百屋はケチで付き合いが悪いから神さんのバチがあたったんだよ」と。
70年前の町には活力があった。神輿はそのエネルギーをめいっぱい吸収して、町内を活き活きと巡幸したものだが、今ではその神輿は神社の一角の格納庫に鎮座ましまして、真夏の太陽の下で荒れ狂ったりはなされない。
《執筆:じぃ》