【つぶやき】
日常の余暇の、身近な容れ物とも言える喫茶店だが、余暇の在り方の変遷とともに喫茶店も変わってきた。
昭和のはじめ以来の喫茶店の変貌を眺めてみると、時代ごとの都市の風俗が喫茶店にはもろに現れているように思われる。
昔の喫茶店はどちらかと言えばグループ志向だったが、昨今は個人志向が前に出て、孤独な人たちがホッと一息つく場所になっているようだ。
【コメント】
日本の社会に「喫茶店・カフェ」の類が出現したのは明治の終わりから大正期、当時は〈カフェー〉と長く伸ばした言い方で、コーヒーという外来の苦い飲み物をエプロン姿の女給さんがサービスしてくれるハイカラな店として、都市風俗の先端に位置していた。それが昭和初期になると、不況とか就職難とか戦争とか、不穏な空気の中で〈エロ・グロ・ナンセンス〉な気分が余暇に浸透してきて、カフェーと言っても、コーヒーばかりでなくビールでもお酒でも飲めるようになり、女給さんもだいぶん進んで、お客の傍らに侍ってエロっぽいサービスまでしてくれて、仕事に追われるサラリーマンの憂さを晴らしてくれる風俗店に変貌した。言わば廉価版のキャバレーみたいだったらしい。
昭和が一番元気だった1960~70年代に若者をやっていた〈じい〉のころの喫茶店(当時はあんまりカフェーとは言わなかった)は、またちょっと違っていた。学生の頃よく通ったのは「名曲喫茶」という喫茶店。渋谷の駅前の有名な交差点のちょっと裏手に「らんぶる」という喫茶店があり(これは英語ではなくてフランス語で「琥珀」という意味)、吹き抜けになったホールの真ん中にでっかい再生装置が鎮座していて、そこから絶えずクラシックの名曲が流れている。客は一杯のコーヒーを時間を掛けて飲みながらベートーベンの交響曲を聴くという趣向。音楽を聴くのが主目的だから、大きい声で話していたりすると周りから「シーっ」と制止されてしまう。
これは孤独型だが、若者たちに人気があったのは「同伴喫茶」。こちらは2人席が中心で、しかも椅子の背もたれが背丈ほども高くなっていて、座っているお二人さんが周りから見えない。この閉ざされた小空間で、お二人の時間を存分に楽しんでください、というわけ。その分コーヒー代は高かった。〈じい〉も同伴喫茶の思い出はそこそこにあるが、これはまあ、言わぬが花ということだろう。
こういう特殊目的のない普通の喫茶店は「純喫茶」と呼ばれていた。何故に「純」なのかというと、昭和初期以来の女給さんがお酒のサービスをしてくれるようなカフェーではなくして、純粋にコーヒーやジュースなんかを提供する喫茶店という意味である。当時の若者たちはサークル活動が大好きで、硬派から軟派までさまざまなサークルが存在していたが、その集会の場所と言えば町のあちこちにある純喫茶が使われたものだった。〈じい〉もそのころは若者の一人であり、みなと横浜の町で「はたちの集い」という若者サークルを作ってコーラスをやったりハイキングに行ったり演劇に取り組んだりもしたものだ。行きつけの喫茶店にはサークルのメンバー専用のノートが備えられていて、誰もが自由に書き込んだり読んだりしていた。喫茶店に立ち寄ったら、コーヒー飲みながら、まずはそのノートを開いて仲間の近況や連絡事項を確認する。そのうち仲間がやって来て、にぎやかなおしゃべりが始まる…という手順だった。それらが今はすっかり電子化されて、皆さん日がな一日スマホの画面を見続けているのですね。それは果たして進歩なのか退歩なのか、これから近くの公園の中に新しくできたカフェを訪ねて、コーヒーの味を検分しながら考えてみることにしよう。
《執筆:じぃ》