【つぶやき】
「真面目に不真面目」。
余暇について考えることには、こんな複雑さがある。
学問的には多領域にまたがるものであり、実際の活動を考えてみると労働や生活、さらには人生にかかわってくる。
しかしそれを「評価」や「価値」の問題だけで考えるとどうしても「余暇の活用」となってしまい、余暇の重要なポイントである「自由」が損なわれてしまう。
自由なままで、余暇について議論していきたい。
【コメント】
第1回のジイがまとめているように、現代の日本において余暇学は低調で、学問分野としてはかなりぼんやりしたものになっている。かっこよくいえば「多領域にまたがる学際的な分野」なのだが、その分多くの学問領域で「おまけ」扱いになりやすい。個人的には、今の国際情勢の問題も、課題が山積みの労働環境も余暇につながる話であり、いつでもどこでも余暇学は大事にしたいと思っている。しかしその重要さを伝えるのは難しい。
というのも、余暇を「評価」や「価値」とだけ結びつけるのは少し危険だと筆者自身が考え、そのようなアピールを避けてきたからだ。マダムが整理した「工学モデル」では、実践的な支援や政策的なアプローチをとり、実際非常に大事な視点になっている。さらに余暇学の重要性を主張するときにはとても有効だ。しかし「工学モデル」だけになってしまうと、「良い余暇」「悪い余暇」という話になりやすい。余暇的な活動も、最近であれば「推し活」に代表されるような、カネが大きく動くものがクローズアップされている。データやエビデンスを求める際には、どうしてもヒト・モノ・カネが見えやすいものが重視され、「ごろごろ」「だらだら」は余暇の無駄遣いだと糾弾されてしまう。余暇はあくまでも自由なのだから、どちらが上でも下でもないはずだ。
筆者自身は社会学の視点から余暇・レジャー・自由時間にたどり着いたのだが、近しい課題意識を持つ研究者とつながり、学会や研究会で積極的に議論できるようになるまでずいぶん時間がかかった。それは確固たる「余暇学」が存在していないからだった。しかし「これを学べば間違いない」というものがない分、まだ途上ではあるが、様々な研究分野について知り、学ぶことができている。
「役に立つ」ことが求められる現代においては、「一見なくてもよさそうな余暇」について真剣に考えること自体がカウンターになる。「余暇学とは何か!」とのめりこみすぎると少々気が滅入って、疲れてしまうこともあるので、軽やかに、でもときには真面目に余暇について議論するためにも、いっしょに考える仲間を見つけていきたい。
《執筆:ヒメ》