【つぶやき】
手作りには「余暇」の味わいがある。
身に着けるものでも身の回りに置いておくものでも、いかにも「手作り」という感じのものをお持ちだと、この人はいい余暇を楽しんでいるんだな、という感じを受ける。
立派な持ち物でも店で買った既製品ということだと、確かにお金はお持ちのようだが、あくせく仕事に追われているんだろうなと感じてしまう。
【コメント】
ヒメは「編み物」がお好きなようで、確かにあれはいい趣味だ。冬の日に一家だんらんの炬燵で、ラジオを聞きながら子どもたちに着せるセーターを毎晩のように編んでいた母親の姿が浮かんでくる。もっともかつての時代には趣味というより、家計の維持に欠かせない家庭内労働だったのかもしれないが、母が楽しそうにやっていたことは確かだ。
手作りの趣味には、ジェンダーの影が色濃く差している。編み物と言えば女のやること、男はもっぱら日曜大工で、椅子を作ったり、壁に本棚を設えたりというのが、じいの時代には常だった。手料理は妻の担当、夫は食卓のガタピシを直し、妻が花を活ければ夫は盆栽をいじり、母がかるたで子どもたちと遊べば、父は将棋を指南する…という具合で、手仕事や手すさびにしても男女の仕分けがはっきりしていた。
もちろん、ただ今はジェンダーフリーの時代であることは承知している。「女のすなる編み物というものを男もしてみんとてするなり」(これは『土佐日記』の冒頭のもじり、念のため)というわけで編み物教室に通う初老の男性をテレビで観たこともある。確かにあの、繊細でややこしそうで根気がいるにちがいない編み物なる手仕事に興味がないわけでもない。まあ、でも、しょせん無理だろうな―とはいうものの、ここで突然思い出したのだが、 乾いた藁を使って縄を綯う(なう)ことなら、かく申すじいにもできる。毎年、収穫したイネの藁で正月の注連縄を作るのは私の役割で、手づくりの立派な注連縄がわが「さんさん亭」の神棚を飾っている。この縄を編めば草鞋(わらじ)も作れるし、もっと大きなものとしては筵(むしろ)を編むというのも農家の男の仕事だった。男性にも伝統的な「編み物」があったことを忘れないようにしたい。
手づくりのことをフランス語では「ブリコラージュ」というのをご存じだろうか。これは素人仕事とか日曜大工を意味する言葉だが、ちょっと面白いニュアンスを含んでいる。それはあらかじめ計画され、必要な材料を整えて、意図の明確な作品を作るのではなくて、その辺に転がっているありあわせの材料を生かして、思い付きを働かせて思いがけないものを作る、いわばいい加減な、テキトーな手作りなのである。例えば壊れてしまった目覚まし時計を分解して、文字盤やら針やらバネなんかを組み合わせて不思議なオブジェにまとめ上げる―もちろん何の役に立つわけでもない、ヘンテコな置物を作るだけのことなのだが、出来上がった作品はともかく、あれこれ考えながら作る過程が楽しめる。もっと日常的には、冷蔵の中で余っている食材を寄せ集めて、あり合わせ料理を作って凌ぐなんて言うのも立派なブリコラージュである。結果がものをいうのは仕事だが、過程に意味があるのは余暇だから、ブリコラージュは多種多様ながらくたに囲まれて生きている現代人にはお勧めの余暇ということになろう。
著名な文化人類学者で『野生の思考』を書いたレヴィ・ストロースによれば、神話的思考というのはブリコラージュの発想なんだそうである。定義から始まって理路整然が求められる科学的思考ではなく、自由で創造的で遊びのある思考法としてのブリコラージュ。思えばこの「つぶやき余暇」なんかも典型的ブリコラージュということだろう。
《執筆:じぃ》