【つぶやき】
大学の講義にも「余暇」をテーマにしたものがあっていい。
実際、今世紀初頭までは、あちこちの大学に余暇論があったのだが、だんだんに少なくなり、余暇論の草分けだった立教大学コミュニティ福祉学部の「余暇生活論」が今年度で姿を消すという。
現実の余暇の貧困化が進む中、余暇論義さえも消えていく。それでいいのか。
【コメント】
大学における教授内容の多様化は留まることを知らず、人文系に限っても、従来の文学、歴史学、心理学などの古典的な科目に加えて、生活系、ビジネス系、アート系、環境系など多彩な分野の学部や学科が生まれ、個々の科目となると、法律から政治、経済に関する多種多様なテーマ、さまざまな社会現象をとらえたジェンダー論とか流行論とか、あるいはアニメ、漫画、映画、小説の書き方から、現代音楽やアートに至る多種多様な科目がひしめき合って学生たちの関心に応えようとしている。だから、「働くこと」と並ぶ人生の重大事であり、趣味や学習やスポーツや観光の基盤でもある「余暇」を原理的に、包括的に、あるいは哲学的に捉えようとする「余暇学」関連の科目の1つぐらいはあっていいはずだ。
「余暇」を看板に掲げた大学の授業を最初に始めたのは、筆者の知る所では、立教大学の松原洋三先生で1970年代の末ごろだったのではないか(確証がないのだが)。立教大はこのころから余暇論を続け、1990年代には筆者も担当したことがある。また放送大学では1985年に一番ケ瀬康子先生が主任講師になって「余暇生活論」を始めている。はじめはラジオ版で、1989年からテレビ版になり、筆者はこれにも参加した。2007年に立教大が埼玉県新座の新キャンパスで「コミュニティ福祉学部」を創設した時には「余暇生活論」が福祉学科の1科目に位置付けられ、筆者は2012年に70歳定年で引くまで続け、現在は盟友で文化社会学の宮入恭平講師が担当している。
その宮入さんから、「余暇生活論」は今年度限りで無くなるので、最後に話に来ませんか、とありがたいお誘いをいただいた。そこで晩秋の一日、久しぶりに紅葉の美しい新座キャンパスを訪ねて、新しい教室で「最終講義」をやらせてもらった。40人ほどの学生を前に余暇は「余ったヒマ」というような余計ものではありませんよ、余暇の余は「余裕」の余、生きることの目的としての余暇なんです、と力説し、日本のほとんど悲惨とも言える余暇状況を逐一説いて、余暇を基軸にした社会変革の可能性をぶち上げた。学生諸君はみな静かに聴いていて、あんまり共感を得られなかったような気がしていたが、リアクション・ペーパー(と言っても昔と違って紙ではなくて、パソコンで書いてメールで送って来るのだが)を読んでみたら、皆さん「講師の話で目を開かれた」という感想で、熱烈に支持してくれていてうれしくなった。就職活動に当たっては、労働条件、その中でも従業員の余暇への取り組みをチェックすると宣言してくれた学生もいた。
欧米の大学では余暇=レジャー、レクリエーションは重要なテーマである。余暇を追求する学科はもちろん学部さえある。市民の余暇の充実度と大学における余暇論の定着とは、当然深いつながりがある。インバウンド3千万人という現状で観光系の大学は増えたが、観光を支える余暇のありようにもっと学問的な関心を持ってほしい。
《執筆:じぃ》