【つぶやき】
日本の休暇政策や観光政策、文化政策までが経済の活性化の論理で推し進められている。
そこに違和感を感じるのは、「生きる目的としての余暇」という土台となる思想が感じられないからだ。
余暇は流行現象ではない。生きる根本を問う問題である。
数少ない余暇講義であるが、このことをしっかりと学生に伝えたい。
【コメント】
私は女子大学のライフデザイン学科で「余暇生活論」の授業を担当している。ライフデザイン学科という名称は、以前は「生活経営学科」や「生活文化学科」などという名で多くの女子大の家政学部に存在していた。ライフデザインとは「私たちを取り巻く環境変化の中で、一人ひとりが人間らしい、心豊かな生活を送ることができ、そしてそのような生活が、限りある地球環境の中で世代を超えて永続性を持つことができるように、個人が社会とのつながりにおいて、生活や人生を主体的に構想し、設計すること」であると定義している(大妻女子大学HPより)。従ってライフデザインは個人の問題としてとどまることなく、「家庭」「地域」「自然・社会」のそれぞれの領域に渡るさまざまな要素が相互に関連しながら、「社会的、文化的、自然的、内面的豊かさをいかにつくっていくかを考えることを目標とする。ライフデザインには「余暇」は欠かせないことと思っているし、「真の豊かさ」を問う学科で「余暇生活論」を講義できることに大変感謝している。
私の「余暇生活論」では、古今東西の余暇論を紹介しながらレジャー史を振り返り(実際には、じいから伝授されたことが多いのだが)、レジャーの国際比較、労働と余暇、余暇とソーシャルデザイン(人と人との交流、社会性余暇活動、余暇空間の利用)などを取り上げている。
我々は、時間を節約し、予定や計画を立て、先回りをすることをよしとしているが(これは、産業理論で動く「前のめりな生活」)、それがかえって自分自身を束縛し、生活を窮屈にしているのではないか。好きなように使える自由な時間への欲求は強く、またメディア革命のお陰で選択肢は増えているのに、結局は差し出される商品に従うばかりになっているのではないか。そんな現代社会の中で、我々は自分の時間(余暇)を個人の意思で持ち、自分なりに組み立てることができるのか。これは、フランスの歴史学者アランコルバンが、余暇=loisirを問うなかで言ってきたことだが、私自身もこの問題意識を常に念頭に置いて授業に取り組んでいる。
じいが前回言っていたように、確かに「余暇生活論」といった科目は大学のシラバスから消えつつあるが、全く「余暇」というテーマが大学で語られなくなったかというとそうでもなさそうだ。2000年代以降、余暇の問題は各領域に分散していってしまった。例えば、福祉分野では「高齢者の余暇と生きがい」「ボランティア・社会性余暇活動」が、幼児や子どもの分野では「創造性を育む豊かな遊び」として余暇教育が、まちづくりの分野では「公共余暇空間づくりや都市のアメニティ」が、観光分野やスポーツの分野では「レジャー・レクリエーション」が、労働問題の分野では「ワークライフバランス」が、というように余暇を巡る問題は、それぞれの領域で取り上げられている。さらに、地域文化、自然環境、ゲームやITコンテンツなどの科目でも触れられることはあるだろう。
しかしながら、我々余暇研究者から言えば、それら全ての土台となる一貫した余暇哲学がなければ、すなわち「生きる目的としての余暇」という思想がしっかりしていなければ、さまざまな領域に分散化した課題も、相互の関連や持続性を語ることは難しい。
近年「ウェルビーイング」という言葉が生活や社会のキーワードとして浮上してきた。ウェルビーイングの探求のなかで、是非「余暇」をしっかり議論していきたい。
《執筆:マダム》