【つぶやき】
小学校の学習指導要領では、テストで測れない「非認知能力」、すなわち「創造力」や「主体性」「表現力」を高めようと、知識偏重ではなく、自らで問いをたて、解決策を仲間と対話しながら考え、創造する学びへ導こうというカリキュラムの再編がなされている。
確かにこうしたアクティブラーニングへの取り組みは評価されるべきであろうが、「非認知能力」を高めるには、学習だけでなく遊びの再考が必要なのではなかろうか。
遊び力なくして子どもの生きる力は育たない。
【コメント】
「子どもたちの遊ぶ姿をイメージしてみてください」と言われたら、どんな姿を思い浮かべるだろうか。みんなで原っぱを駆け回って鬼ごっこをしたり、野球やドッチボールに日が暮れるまで興じていたり、あるいは基地ごっこと称してガラクタを集めてきて小屋を作ったりしている楽しそうな姿を思い浮かべるのは昭和のノスタルジーかといえば、決して時代錯誤とまでは言い切れない。
今の子どもたちも、鬼ごっこをするし、野球やサッカーやドッチボールも基地ごっこもやっている。では何が違うのだろう。今は鬼ごっこといっても、狭い場所でせいぜい4人くらいでやっているので、追いかけるものと追われるもののダイナミズムが感じられず、直ぐに飽きてしまう。ボール遊びは、原っぱがなくなってしまった上、公園では小さい子やお年寄りに当って危ないという理由で禁止され、校庭かフェンスで囲われた運動場でやるしかない。子どもたちは、わざわざそうした場所に出向いて行って、何とか少ない人数ながら工夫して打ったり守ったりしながら始めるが、やがてお稽古や塾の時間がきたといって1人抜け2人抜けしてしまい、対戦が成立せずつまらなくなっていく。基地ごっこも、取り敢えず階段の下や木陰で居場所を確保するも、やっていることといえば、お菓子を食べながら個々にゲームをするだけなのだ。
少子化や都市化など社会環境の変化で、子どもの遊びのサンマ「時間」「空間」「仲間」は、どんどん失われていく。「時間」に関していえば、「遊ぶ時間が少なすぎる」という子どもたちの声は、多くの調査で聞かれる。お稽古や塾に忙しく、自分で何をするか自由に決められる時間は意外にも少ない。よって複雑な遊びはできなくなり、隙間時間は手っ取り早く遊べるゲームや漫画に走る。「空間」に関しては、そもそも住宅密集地ではスペースが少ない上、公園は危険すぎる遊具が撤去された安全な遊具ばかりになり、その上大声を出して遊びまわるのはご近所迷惑だからダメと規制が厳しく、面白くもなんともない。「仲間」がいないと、すなわち遊び集団が形成されなくなると、遊びから学ぶ社会性や協調性や創造性、コミュニケーション能力が育たない。
こうした問題は、今起こったことではない。もう何十年も前から危惧されてきたことだ。客観的に子どもの遊び環境を考えてみると危機的状況にあることは明白であるし、保護者自身も自覚している。保護者に聞いた小学生の放課後や休日の過ごし方の希望は、「運動やスポーツをする」「友だちと遊ぶ」の回答が多いが、それは現状においてそんなことさえ十分に出来ていないことの反映であるとも考えられる。(令和4年「青少年の体験活動等に関する意識調査」国立青少年教育振興機構)
子どもの遊び環境への責任は、我々大人にある。時間を効率よく使い、事前に危険を排除し、完成した遊具やおもちゃを与えることを当然とする大人が与えた環境では、画一的な遊びしか生まれない。ゲームがなければ面白くないという子どもたちと、消費的な娯楽で時間を使う大人たちとは大差がない。大人も子どもも主体的に創造力を育む「暇」な時間(余白の時間)に、真剣に向き合うときなのではないだろうか。
《執筆:マダム》