【つぶやき】
推しのコンサートで、生きる力をもらったと言う人を羨ましく思う。
「この日のために、仕事頑張ってきたんだもん。私にとってはお祭りよ」
「元気出たけど、明日からまた日常。次のコンサートまで、頑張れるかなあ」と。
生活に変化を与え、エネルギーをチャージする時間・場は「非日常=ハレ」 推しのコンサートは、現代的祭りなのか?
【コメント】
ふるさとと呼べる地を持たず、都会に暮らす私にとって、伝統的な祭りは憧れだ。30年くらい前になるが、愛知県の半田市に3年間住んだことがあった。半田の春の祭りは、地域ごとに自分たちの神社で三番叟を奉納し、山車を曳く。大祭には市内の31輌の山車が広場に一堂に会し、圧巻の光景を披露する。こうした山車文化は、江戸時代に商人が力を持つようになって各地に作られたが、中部や関西に多くみられるようだ。半田は、江戸時代中頃から酢や酒造りが盛んだった。山車には、祇園祭ほど豪華絢爛ではないが、刺繍や彫り物やからくり人形がほどこされていて、見ているだけでも楽しかった。
私が羨ましく思ったのは、祭りに向けての地域の盛り上がりだ。残念ながら、転勤族にはどのような共同体の結束があったのかよくわからなかったが、祭りの一か月前くらいから準備に人々が動き出した。寄付を集め、まちを祭礼用に飾りつける。祭り当日は、私も山車の後ろを子どもと一緒について歩き、御旅所ならぬ休憩所では、振る舞われたご馳走を口にした。山車を曳いた男性陣はお酒を飲んで、大声で話していた。力強くてカッコいいように見えた。
ところが祭りが終わると三日も立たないうちに、何事もなかったように静かな日常に戻った。祭りの余韻に浸って喜んでいるのは、よそ者の私だけだった。
民俗学者の柳田國男は、生活における「日常」と「非日常」を、「ケ」と「ハレ」という概念で対比させた。「ハレ」は、「晴れ舞台」や「晴れ着」という言葉で馴染みがあるように、日常から切り離された特別な晴れやかな時間(年中行事や神事および人生儀礼など)を指し、「ケ」は、仕事や家事の連続、日常の普段の暮らしを指す。
祭りは「ハレの時間」。祭りは、神輿や山車、踊りや芸能、飲食などで構成される祝祭だ。時に無礼講ありで、非日常ならではの逸脱や興奮が許された。前回ジイが語ったように、そこには活き活きとしたエネルギーが渦巻いていた。祭りは地域のアイデンティティを強め、人々の心身をリフレッシュさせ、日常生活を営んでいく力を与えるものだった。こうしたハレの時間・場でエネルギーをチャージして、刷新された日常・ケへ帰っていく。ケ⇒ハレ⇒ケの循環は、生活にリズムを与え、我々を再生させるものだった。
しかしながら、今日では伝統的な祭りの意味も変容し、文化の伝承も難しくなってきた。ボランティアや地域外の助けでなんとか続けている祭りや、観光化する祭り、崩壊寸前の地域コミュニティの再生を狙う新しい祭りも登場している。
若いヒメが語ってくれたように、今や地域の祭りだけが「祭り」ではなく、音楽フェス、アートフェス、フードフェスなどのイベントも「祭り」だ。
今や、土地と人を結びつける祭りより、趣味や関心と人を結びつけるフェスが好まれるのだろうか。祭りの地域性・周期性・儀礼性・贈与・共同体的意識が薄れていくフェスは、祝祭としてのハレを感じられても、「祭り」なのだろうか。そんな疑問は、時代遅れと笑われるかも知れない。
《執筆:マダム》