#115 自由 その1(2025年9月4日)

【つぶやき】

余暇の核心にあるもの、それは何だろうか。
余暇にはいろいろなバラエティがあるが、どんな余暇にも含まれていて、それがなくなったら余暇が余暇でなくなってしまう、肝心かなめの余暇の精髄―それは「自由」というものだ。
自由なくして余暇はない、余暇とはまさしく自由を満載した時間のことなのだ。

【コメント】

 中高生のころはカトリック系の男子校に通っていて、質実剛健、規律ある毎日を送っていた。とは言え、そんなに規則づくめでがんじがらめだったわけでもなく、生活指導のドイツ人の神父さん方はなかなかユーモアもあって、規則はあっても片目をつぶって見逃すようなこともしてくれた。授業も学校行事も部活動もそこそこにこなして、総じて楽しい6年間を過ごすことができた。
 そんな生活の中でも、いちばん「いい時間」を感じたのは土曜日の午後である。一週間の授業がお昼に終わり、今日はもう何をしても、しなくてもいい自由な時間、明日は日曜日で、これはもう一日中が自分の時間に違いない。お昼のベルが鳴って教師が教室を出て行った時の解放感、それまで緊張していた身体がぐにゃぐやにほどけていき、ほっと息をつきながら「さてこれから何をするか…」とあれこれ思いめぐらすときの期待感―あの喜びの感覚は今でも忘れ難い。
 それと対照的なのが日曜日の夜の思いである。「ヤレヤレ、明日からまた学校が始まるのか」というちょっとしんどい気分―とはいえ、登校したら困るような格別の事情があるわけではないのだが―、それとせっかくの休みを大したこともせずにのんべんだらりと過ごしてしまったことに対するちょっとした後悔、それらがないまぜになってなんとなく面白くない心境に陥る。土曜の午後と日曜日の夜に感じる相反した気分―これを繰り返しながら日々が過ぎていくのであった。
 大学時代になると、こうした感覚は失せてしまった。時間管理は自分の勝手で束縛感はなくなり、今と違って、講義を前にして学生の出席を取るというような野暮な教師は、少なくとも文学部にはおいでにならなかったので、土曜日の午後の効用は感じられなくなった―というより、毎日が土曜日の午後になってしまったと言おうか。
 卒業して職業人になってからは、再び「土曜日の午後」―週休2日になってからは「金曜日の夜」が出現し、同様の解放感が味わえるようになったはずだが、「編集者」という、けっこう自由な仕事でタイムカードなんてものはないし、土曜だろうが日曜だろうが、仕事に飛び回ることもしょっちゅうだったので、拘束と解放の転換をしみじみ味わうということはあんまりなくなってしまった。
 今、思い直してみると、中・高校時代のあの土曜日の午後の味わいこそは「余暇」なるものの原形質なのだと思う。余暇というのはあらゆる束縛からの解放であり、自由の海への出航なのである。自由への希求が強烈でればあるほど、余暇の存在意義がますます高くなるということだ。日本人の貧困なる余暇について考える時、この「自由」の見地からのアプローチが重要になるはずである。

《執筆:じぃ》


Contact Us

東京都日野市百草1002-19
info@yoka.or.jp

Top