#099 子どもの遊び その3(2025年3月24日)

【つぶやき】

 現代の子どもの遊びには障壁が多く、気軽に遊べない状況になっている。
軽視されている遊びからこそ「非認知能力」が育まれ、生きる力につながってくるのかもしれない。
 しかし、遊びの効果や意義を説いて、遊びを推奨するとき、そこには「コスパ」や「タイパ」の発想はないだろうか。「遊びたいから遊ぶ」では不十分で、「こんな意味があるから子どもは遊んでいいんですよ(でも大人は遊んでいる場合ではない)」という許可のようなものが透けてみえる。ところが、多くの遊びは無目的であって、むしろそこに遊びの魅力がある。「子どもの遊び」に意味を見出すこと、それ自体を問い直してみたい。

【コメント】

 これまでジイ・マダムが説明してきたように現在の子どもの遊びには障壁が多く、なかなか遊びに熱中できない子どもの姿が浮かび上がってきた。今は、おとなの目の届く範囲で、安全安心な遊びだけが推奨されている状態だ。そのため、いまの子どもたちが「いっしょに遊ぼう」と声をかけあったときに、今日は習い事・塾に飛んでいかなくてよいのか、同じゲームを持っているのか、おうちの人がOKを出してくれるのか、そういったことがまず大事になってくる。
 先日、子どもの遊びについての発表を聴く機会があった。そのなかで、専用の道具や条件がそろわない中でどのようにして遊びをおこなうか、との問いがでてきた。例えば、ゴールネットがないところでどのようにしてサッカーをするのか、ランナーが足りない中で野球をするにはどうしたらよいのか、といったことだ。このつぶやきを読んでくださっているかたは、「地面に線をひいて、そのあいだを通ったときにゴールとする」、「ランナーがいることにして、ひとまずバッターとピッチャーがいれば大丈夫」と思いつくかもしれない。これが「主体性」や「発想力」につながってくるだろう。
 とはいえ、子どもの自由な時間における遊びは自由な活動であって、「非認知能力」が育まれるのはあくまでも結果でしかない。学校の授業では、その教育活動の効果や目的も重要だが、すべての遊びに意義を見出そうというのは、「コスパ」や「タイパ」の発想ではないだろうか。大人のほうが互いに説明責任やエビデンスを求めるあまり、「遊んでいい理由」「遊ばないといけない理由」を考えてしまう。さらに、年齢問わず、人気テーマパークのような費用と時間がかかる専用施設に出向くことが遊びなのだという風潮があるように思う。
 あくまでも仮説だが、「子どもの遊び」に対して風当たりが強いのは、大人が遊ぶ暇がないのに子どもばかりずるい、というどこか妬みに似た感情があるからではないかと推測する。みんな自由に遊ぶことのできる社会、なかなか難しいかもしれないが、そんな未来を夢想している。

《執筆:ヒメ》


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