#095 時間のゆとり その2(2025年2月14日)

【つぶやき】

「ゆとりがある」という状態は、自由な時間とお金とともに、心のあり方とも結びついている。

客観的条件と主観的条件がともに支え合ってゆとりが生まれる。平成この方、私たちはその両方において「ゆとり」なき暮らしを強いられている。

その解決の第一歩は、「余暇」というものをかけがえのない資産だと考えるところから始まる。

【コメント】

 じいの昔話から始めよう。労働運動のナショナルセンターである「連合」が誕生したのは昭和も終わろうとする1987年のことだった。総評と同盟ほか、左右に分かれて対立していた労働者の組織が一本化し、働く者の総力を挙げて資本と対峙する図式が出来上がった。誕生したばかりの連合は「ゆとり宣言」なるものを発した。「みなさん、週に2日は手を休め、ときには長い休みを楽しみ、日々ゆとりのある暮らしを実現しましょう・・・」というような文句で(40年近く経ったのでちょっと違っているかもしれないが、大要はこんなところだ)。要するに完全週休2日と長期有給休暇の実現、毎日の労働時間の制限を新たな労働運動の目標に掲げたのだった。

 労働運動の目標は言うまでもなく雇用の確保と賃金を上げることだが、それと並んで労働時間の短縮も重要な課題だ(賃金と労働時間は盾の両面で分かちがたく結びついている)。西欧の労働運動は過酷な長時間労働の克服を目指した長い戦いを経て1日8時間労働を確立し(ILO第1号条約)、さらに週休2日や長期休暇(バカンス)の獲得を目標に成果を上げてきた。後進国日本の労働運動も、手ごわい資本と国家の連合を相手に長いこと戦いあ続けて前進してはきたのだが、こと「余暇の獲得」となると、まるっきり形無しで、平成を経て令和の今日でさえ、長時間労働は当たり前、休日も返上、有給休暇も取れずに過労で死ぬ人が後を絶たない。連合さんに言いたいのだが、あの「ゆとり宣言」はどうなりましたか、すっかりお忘れなのでしょうか。賃上げも結構だが、余暇をもっと大事にして「余暇権スト」でも打ったらいかがなんでしょう。

 もう一つの思い出は「ゆとり教育」である。詰め込み教育はやめて、カリキュラムを減らし、余裕と隙間のある学校を作りましょうという声は、1980年代ぐらいから主張されるようになり、これは2002年に実現して生徒の自主的な学びを大切に、心のゆとりを育てる教育が始められたのだった。ところが10年も経たないうちに、全国学力テストの点数が下がったとかなんとか難癖をつけて、せっかく定着し始めた学校の「ゆとり」はものの見事にたたき出された。2011年には「脱ゆとり宣言」まで発せられたのである。この動きの背後にあるのは、労働現場に「ゆとり」がない以上、そこへ人を供給する学校で、なまじ「ゆとり」など体験せない方がよろしいという、権力と悪知恵のある方々の策謀によるとじいはにらんでおる。

 かくて時間のゆとりはもっぱらわれわれ高齢者のところにしか見つからなくなり、それ自体は悪いことではないが、それを支えるべき経済のゆとりは、年金制度ひとつとっても、十分であるとはとても言えない。かくて高齢者も、なかなか心のゆとりを持つまでに至らず、自らの体験や技量を生かして地域社会に貢献しようなどという気持ちになるどころか、我が家に閉じこもって無聊を託ったり(これは、ぶりょうをかこったりと読む、不案内の方は辞書をお引きなされ)、外へ出れば非行老人になったり暴走したりするという次第となる。

 「ゆとり」という言葉のやさしさと美しさを誰もが味わえる社会を作らねばならない。そのために「ゆとり」の容れ物としての余暇を大事にするキャンペーンを興したい。

《執筆:じぃ》


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