【つぶやき】
余暇の中でも「賭け事」くらい、古代以来の歴史と伝統があり、それでいて時代に即した新手の登場が引きも切らないものはなかろう。古代の法が最初に禁じたのは賭博だが、平安朝の天皇方も戦国期の武士たちも江戸の町人もサイコロは大好き。そして現在、パチンコはすでに古典となり、競馬競輪、加えてⅰtゲームによる賭けまで、より取り見取りの賭けが犇めいている。余暇の中でも「賭け事」くらい、古代以来の歴史と伝統があり、それでいて時代に即した新手の登場が引きも切らないものはなかろう。古代の法が最初に禁じたのは賭博だが、平安朝の天皇方も戦国期の武士たちも江戸の町人もサイコロは大好き。そして現在、パチンコはすでに古典となり、競馬競輪、加えてITゲームによる賭けまで、より取り見取りの賭けが犇めいている。
【コメント】
朝の10時前、駅前通りまでやってきたら何やら行列ができている。皆さんスマホを眺めながら何やらの開店を待つ様子。看板を見たらパチンコ店だ。珍しくもない光景なのだが、ちょっと驚いたのはその客層、パチンコと言えばオジサンの専売特許、まあ、最近は年金暮らしの暇な年寄りが朝からパチンコ店に入り浸るなんてのは日常茶飯事だが、その列の中に若者が目立つのだ。出勤途上?の若いサラリーマン風もいれば、近くの大学の学生みたいなのもいて、そこまでは当然なのだが、何と若い女性がかなり目につくのである。それもそれなりのファッションに身を包み、目抜き通りを闊歩してもおかしくないお嬢さんがバッグを抱えてパチンコの開店を待っているのだ。パチンコ店もずいぶんときれいになって、けばけばしい装飾は相変らずだが、かつての大音響と紫煙もくもくの魔窟のような雰囲気は一掃されているから、若い女性にとっても、ちょっとおしゃれな暇つぶし?なのか。いや、むしろ彼女たちは、これからちょっとお仕事をして、ランチ代とお化粧代ぐらいはゲットしようと考えて並んでいるのかも知れない。
「賭ける」というのはまことに人間的な行為である。サイコロの目が丁と出るか半と出るかは神ならぬ身の知る由もない。その不確実性に敢えて大事な財貨を託すのだ。神様が自分に味方してくれれば、思い通りの目が出てがっぽり儲かるが、運に見放されればすべてを失う。とはいえ初めから神頼みというわけでもない。ギャンブルの王者と言うべき競馬、競輪となると、まずは徹底した情報分析から入る。競馬・競輪の情報紙(ネット情報も)にはレースや馬や選手に関わるあらゆる情報が細大漏らさず載せられている。それらをトコトン読み込んだ上で、今日のお天気やら馬の様子やら、競輪ではレースを共に戦う選手たちの人間関係まで考慮して投票するのだから、なかなかの知的ゲームに違いない。考えに考えて決断したうえで大枚を投じて馬券・車券を買う。レースが始まれば、やっぱり後は神様に頼るしかない。固唾をのんでレース展開を見守る―思わず「行けえ~」と絶叫が口をつく・・・そして首尾よく我が馬が(人が)真っ先にゴールに飛び込めば、これはもうこの世は天国。反対にあえなく敗れて投じた大金が夢のように消えてしまうこと(の方が圧倒的に多い)になれば、目の前は真っ暗、手にしていた馬券・車券は八つ裂きにされて花吹雪となる。
ロジェ・カイヨワの遊びの4分類は良く知られている。遊びは多種多彩のようでも、せんじ詰めれば、競争と偶然、模倣とめまい(幻惑)の4つに集約されるという。これを子どもの発達に置き換えると、いちばん原初的なのはぐるぐる回りのめまい遊び、ついでままごとの模倣遊びが現れ、自意識が出てくると競争遊びに夢中になる。しかし、賭けはもう少し大人に近づいて「自我」が確立しないと楽しむことができない。自分の大切にしているものを偶然に任せて、良くも悪くもその結果を受け入れることができるためには、「自分の行動に全責任を持つ」という自立心を欠くわけにはいかないからである。パチンコ店に並ぶ人達は、何が起きようとも揺るがぬはずの自分の存在価値を試しに来ているのかもしれない。
《執筆:じぃ》