【つぶやき】
余暇の中でも欠かせないメニューは「酒を飲む」ことである。
酒はわれわれの肉体はもちろん精神にも働きかけて、この世ならぬ楽しみを味わわせ、人と人との間をつないで「人間はみな兄弟姉妹」という気分を作ってくれる。
酒を飲むことはもちろん、酒を造ることも人間に許された文化の1つでなければならない。
【コメント】
酒を飲むのは間違いなく代表的な余暇の行為である。飲んでしまったら仕事にならない。仕事時間に引き出しに隠したウィスキーを秘かに舐めているくらいは、つらい仕事へのモチベーションになるかもしれないが、大っぴらに飲んでいたら間違いなくクビになる。酒の提供を仕事にする酒場の親父も、自分が飲んでしまったら商売にならない。自らは禁欲して、客の飲酒という余暇を支援することで彼は稼いでいるのだ。
仕事を済ませたら駅の辺りの居酒屋で一杯やるというのが日本のサラリーマンに広く伝わる習慣だが、これは言わば余暇の獲得、あるいは余暇の確認のための行為ということができる。とはいえ、多くの勤労者は一杯やりながら終えたはずの仕事のあれこれを話題にしたり、上役のこきおろしをしたり、せっかくの余暇の場を仕事で汚染して恥じない。
ここに大きな問題がある。酒酔いの力で仕事との決別を果たし、別世界に遊ぶはずが、再び仕事世界に引き戻されてしまう。この悪習慣が日本人特有の長時間労働、ワーカーホリックの温床になっている。酒を飲むのは余暇なんだから、飲み仲間は職場の同輩とは異なる人間たち―家族であったり友人であったり、スポーツや趣味を共にする仲間であることが望まれる。
酒はまた優れた交流財である。人と人の円滑なコミュニケーションに酒が果たす役割は小さくない。アルコールの麻酔作用は人間の心理の上層から効いて来る。飲むことによって最初に眠ってしまうのは超自我である。わかりやすく言えば道徳心や自制心である。酔っぱらうと自分を縛っている縄目が緩くなる、つまり無作法になる。それでも利害損得を考える大人の心はまだ覚めていて、これ以上飲んだら懐具合が心配だ、などと考えている。しかし、それを突破してもっと酔えば、もうどうでもよろしい、矢でも鉄砲でも持って来いという心境になる。
ここで姿を現すのが心の深層にある「子ども」である。誰もが昔々そうであったような素直な子どもが回復されて笑ったり騒いだり、時には暴れたりもする。そこでは、外観は成人に違いないが、みな幼稚園のころの子どもに還っている。子どもは自由で楽しい。生きる喜びにあふれている。誰とでも友だちになり、一緒に愉快に遊ぶことができる。アルコールの価値は、社会の慣習や約束に縛られる以前の、地金の人間味が現れることにある。そこでの交流は「腹を割った」やり取りであり、本音の語り合いであり、深層のコミュニケーションであると言える。
こうした意味で、酒を造ることは生活文化の欠かせない要素である。農業と酒造りとは切っても切れない関係にある。西欧の麦を主食とする文化はビールやウィスキーを産み出し、米作の日本は日本酒を作りだした。米を蒸して麴を加えて水を入れ、何度もかき回していると数日を経ずに発酵が始まり、いい匂いが漂って酒ができる。これを布で漉すといわゆる濁酒(どぶろく)となる。実に簡単だ。昔は農家はもちろん、一般家庭でもどぶろくを作って祝い事に使ったりしたのだが、明治政府が日清戦争の戦費をひねり出すために、民間の酒造りを一切禁止し、酒は免許を受けた酒屋でしか買えないことにして高率の酒税を掛けた。その収入は一時は国庫の3割にも達したという。この法律は今も生きていて、自家消費も含めてどぶろく製造は酒税法違反になる。前田俊彦という地域の活動家・哲学者がこの悪法に挑戦し、どぶろく製造禁止は人民の文化権を侵すものだと訴えて最高裁まで争ったが、負けてしまった。
そもそも問題は、酒税法という法律にある。その改定を掲げて、どぶろくを取り戻す政治運動がそろそろ出て来てもいいのではないか。お酒を安価に楽しめることは、余暇の自由の欠かせない要素だと思うのだが、いかがだろうか。
《執筆:じぃ》