【つぶやき】
世間の常識からいうと、
余暇というのは仕事が終わった後の余りのヒマということになっている。
つまりは仕事がまずあって、その後に余暇がついてくる。
仕事が主人で、余暇はそれに付き従う従者、あるいは僕(しもべ)だということになる。
しかし、すべてのことがらは逆の見方があるはずだ。
余暇がまずあって、余暇を終えたその後に仕事をする、
つまりは余暇が主人で、仕事が従者という見方だってできなくはない。
これは荒唐無稽(こうとうむけい。デタラメを難しく言うとこうなる。)な話だろうか。
【解説】
ビジネス用語で「ネゴシエーション」という言葉がある。交渉とか折衝という意味の英語だが、ビジネスの現場で営業担当者が顧客と商談を進めることを表す用語で、ビジネスマンなら「ネゴ力」のあるなしが決定的に重要であることは言うまでもない。
この言葉の来歴を当たってみよう。‘negotiation’という言葉を分解すると、neg-と-otiationに分けられる。neg- というのは否定辞で、「ノー=ない」ということ、後半はラテン語のotiumを起源とする言葉で、オチウム、すなわち「余暇」である。つまりネゴシエーションは「ノー余暇」、余暇がありませんということなのだ。余暇をあきらめて真剣に交渉するのがビジネスマンの心意気。かくして今日もオフィスや道端や喫茶店やレストランや飲み処を会場に多種多様なネゴシエーションが繰り広げられているのである。
ネゴシエーションという言葉が生まれてきた背景あるいは無意識を探って見ると、真剣な仕事というのは、余暇の否定、あるいは余暇の放棄であるという考え方が浮かび上がってくる。はるか昔にこの言葉を生み出した西洋人は、人間の常態(普通のあり方)は、まずはのんびりと余暇を楽しんでいることであり、仕事というのは、その余暇を見限って立ち上がり、あえて面倒なことを引き受けることだと観念していたというわけだ。仕事が終われば、彼はまたさっさと本来の余暇の世界に戻り、陽だまりに寝転んで安逸の時を過ごすであろう。
これは西洋人ばかりの発想ではない。実は、わが日本語にもおなじ構造の言葉がある。「営み」がそれである。「営み」を辞書で引いてみると「しごと、はたらき、勤め」という意味が記され、さらに「支度」とか「準備」という意味でも使われる。いずれにしても遊んでいるのではなく、何らかの仕事をするのが「営み」に違いない。
この言葉の作りはどうなっているのか。「いと」というのは実は古語では「ヒマ」のことである。「いとまを告げる」という語句は今でも使われるが、いとま=暇であり、暇を取って去っていくことを意味している。後半の「-なみ」の部分は「なし」という語に形容詞を名詞化する接辞「み」がついたもの(赤い+み=赤み)。つまり「いとなみ」とは「いと=暇がないこと」と解釈できる。これはネゴシエーションの組み立てと全く同じである。
古代人は余暇の中に生きていたのだ。余暇こそが人間本来のあり方であり、時々、余暇を捨てて交渉したり営業(イトナミ)したりして社会を回していく。営みがうまくいけば、再び本来の余暇世界に戻って平和と愉しみに生きる。現代人が忘れかかっているこのライフスタイルを、コロナ後の「新しい生活様式」として、今一度取り戻してみる価値があるのではないだろうか。