#011 江戸時代には過労死はなかった(2022年2月14日)

【つぶやき】

日本人の「過労死」はつとに世界的に有名で
働き過ぎて死ぬ人が後を絶たない。
KAROSHIという用語は英語の辞書にも登録されている。
(2002年 オックスフォード英語辞典に載ったのが最初)

でも、日本人はもともとそんなに「働き過ぎ」ではなかった。
それは近代以後、特に大正期辺りから今日まで続く習慣(というより悪習)で
たかだか100年ぐらいの「伝統」に過ぎない。
それも「過労死」となると、バブルがはじけて
失われた10年、20年と言われた平成期に目立ってきた現象だ。

そこで少しばかり歴史を巻き戻してみよう。
かの江戸時代に「過労」で死んだ人がいたのだろうか。
徳川300年の泰平の時代、貧しくとも平和な時代に
人々はもっとのどかな働き方をしていたように思われる。

【解説】

 1602年に徳川家康が江戸に幕府を開いて戦国時代は終わり、1614~15年の大阪冬の陣・夏の陣で豊臣家が滅びて以来、幕末まで250年ほど、百姓一揆の小競り合いはあったにせよ、日本には内戦というものがなかった。同じころ、ヨーロッパではカトリックとプロテスタントの血で血を洗う宗教戦争、それが一応収まった後は国民国家同士の領土争いの戦争が絶えることなく続いていた。

 徳川幕府は対外関係には慎重で、外国との往来を禁じ、国同士の交易もできるだけ抑え―とは言ってもゼロにしたわけではなく、長崎を中国とオランダに開き、対馬藩は朝鮮との外交関係を持ち、薩摩藩は琉球と密貿易をして儲け、松前藩は蝦夷(北海道)を経由して大陸との交易ルートを維持していた。「鎖国」というのは言いがかりで、国を閉じたわけではなく、細々ながら窓を開けておいて、それ以上、隣国へ侵略したり対外戦争をしたりすることはなかった。言うならば模範的な平和国家だった。

 戦争のない時代、経済は次第に発展し、江戸をはじめ京都や大阪の大都市には周辺の農村から多くの人が集まった。江戸の人口は膨れ上がり、江戸時代後期には100万人に達し、当時のロンドンを凌駕した。参勤交代の武士が暮らす一大消費都市江戸には、農村から流れ込んだ人たちを養うに足るだけの仕事が生まれた。庶民はだいたいのところ、暮らしを維持できる程度に働き、あとはできるだけ生活を楽しむことに時間を使った。職人たちは、自分たちの作品作りに精魂込めて打ち込んだが、決して働きづめに働きはしなかった。疲れがたまると勝手に仕事を放りだし、仲間を誘って吉原へ繰り出す.....というような気ままな働きぶりだった。これでは過労死などするはずがない。

 幕末に日本を訪れたオールコック(イギリスの外交官、『大君の都』という日本紹介の本を書いた)は、日本の庶民について「生活とか労働をたいへんのんきに考えていて、適度に働き、簡素だがゆとりと自主性のある生活をしている」と記している。労働は生活するためには必須の活動に違いないが、それは決して生活の目的ではなく、楽しく生きることこそが目的なのであった。こういう人たちが過労死するわけはない。

ただし、農村ではたびたび不作のための飢饉に襲われ、時には窮乏して餓死する人もあったことは事実である。しかし、餓死はしても過労死はしなかった。農村の働きぶりもそれなりにのどかなものだった。江戸期にはもはや農奴(農業奴隷)は存在せず、自作農が増え、小作農も順調に作物ができればそれなりに食べていけたし、窮したら都市へ逃げる手もあった。

 現代日本人が「過労死大国」の汚名を返上するためには、いま一度、江戸時代の暮らしや価値観を見直してみる必要があるのではなかろうか。

 (参考:渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社、2005年)


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