#012 わが国最初の余暇の本(2022年2月24日)

【つぶやき】

日本で最初に余暇をテーマにして書かれた本をご存じだろうか。
それも今日や昨日ではない、遠い昔の鎌倉―室町時代、
当時の知識人が書き残した「余暇」の本、
あなたはその本の名が思い浮かぶだろうか。

答えを言おう、
それは吉田兼好の『徒然草』―つれづれ草、
つれづれなるままに...で始まるあの本だ。

『徒然草』が何故に余暇の本か、
それはこの著者が「暇で退屈している」ことを大切な拠り所として
この本を書いているからである。

【解説】

「徒然草」の冒頭は次のように始まる。

つれづれなるままに、日くらし、硯(すずり)にむかひて、
心に移りゆくよしなし事を、
そこはかとなく書きつくれば
あやしうこそものぐるほしけれ。

この有名な一節を現代風に、少しくだけた言い方で書き直してみると、

毎日することもなくて退屈なんで、一日中、パソコンに向かって
心に浮かぶ取り留めもないことを
あれやこれやと書き散らしていると
何ともあほらしくなってくることだなあ。

...とまあ、こんな感じになる。
あほらしく=物狂おしくなってくると兼好法師は言いはするが、それは一種の反語である。作者は書くことを無意味だと思ってはいないし(ほんとにそうなら、合わせて243段も書き続けるはずがない)、実は書くことを心から楽しんでいる。「徒然草」は、今でいうエッセイ集に当たるが、取り上げられているのは、生真面目なお説教ばかりではない。どこのだれがどうしたという、退屈しのぎの世間話がいろいろ出てくる。坊さんが戯れに壺の中に頭を突っ込んだら抜けなくなり、壺を割ろうとしても割れず、むやみに叩くとガンガン響いて耐え難く途方に暮れる話(第53段)のような、それこそアホな話があるかと思えば、よい友だちには3種ある、1つは物をくれる友だち、2番目は医者、3番目は知恵のある奴(第147段)という指摘があって「なるほど」と思わせてくれる。現代でも十分参考になるコメントであろう。

 作者の兼好法師は、出家はしていても寺院に入って修行生活をしたわけではなく、頭を剃って坊さんの格好はしているが、普通に日常生活を送って過ごしている。お酒も嫌いではないようで「下戸ならぬこそ、男はよけれ」と断じている(第1段)。官職は辞して「遁世者=世捨て人」ということになっているが、あれこれの本を読み、和歌を創り、気の合った友と語り合い、世の人のふるまいを批評し、気の利いた警句も吐いている。その生活を支えていたのは、京都の山科の辺りに所有していた水田1町歩であったらしい。今風に言えば、退職して年金暮らし、暇を生かしてあれこれの文化サークルに属し、エッセイを書き散らして楽しんでいた「余暇人」だということになる。

兼好法師の余暇観は、第38段の冒頭に明快に述べられている。

  • 名利に使われて、閑(しず)かなる暇(いとま)なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
  • 「地位や利益に振り回されて、余暇を顧みず、楽しくもない生活をするなんて愚の骨頂。」

これこそ、兼好さんが私たちに送ってくれているメッセージと言うべきだろう。
「徒然草」を余暇の本としてもっともっと読み込んでみたいと思っている。


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