#019 こま切れ余暇からまとまり余暇へ(2022年5月4日)

【つぶやき】

時はいま、5月の大連休の真っただ中、
昨年も一昨年もコロナで身動きがとれなかったゴーデン・ウィークが3年ぶりによみがえって、
コロナの怖れは払拭されてはいないものの、観光地はどこもそこそこの賑わいのようだ。

週休2日制さえ、完全に定着しているわけではない余暇貧国ニッポンでは
連休というと、それだけで何となく嬉しい気持ちになるが、
憲法記念日 ? みどりの日 ? 子どもの日と続く押しも押されもしない3連休は
新緑の美しい5月の気候とも相まってお祭り気分を味わわせてくれる。

多くの勤労者は休日と休日に挟まれた平日は休日という「オセロゲーム」みたいな発想で
有給休暇を申請して10連休を作りだし、ちょっとしたバカンス気分も味わう人もいる。

そこでしみじみ感じることは、余暇というのつながって長いところに価値がある、
半日とか1日ぐらいの余暇は、余暇の断片に過ぎないということだ。
余暇は長く繋がってこそ価値があるのだ。

【解説】

 そもそも余暇というのは、どれくらいの長さがあれば「余暇」という名に値するのだろうか。仕事の隙間に生まれた1時間や2時間の空白、たまたま得られた半日ぐらいのヒマ時間、それらも確かに余暇でないとは言えないが、偶発的で受け身なものにならざるを得ないので、目的意識を持って何か特別なことをするというわけにはいかない。ぼんやり休憩してコーヒーでも飲むか、パチンコ屋に飛び込んで一時の気晴らしをするぐらいが関の山だろう。

 休みになっても本務である仕事のことを簡単に忘れることは難しい。1日、2日はまだまだ仕事の呪縛の中にある。連休3日目ぐらいになってやっと少し仕事離れの気分になり、4日目になってやっと仕事を忘れることができる―だからこそ4日目を「よっか―余暇」というのである―というのはあんまり上等でないことば遊びだが、ともあれ、余暇の存在感はそれがある程度の長さで持続していることによって初めて実感できることは確かである。5月の連休は、国民的な規模で「余暇感」を味わうことのできる貴重な機会の一つである(あとは正月と夏休み)。

 日本人の余暇時間は全体的に少ない。それはよく指摘される事実だが、もう一つ指摘されるべきは、それが短く分断されていることである。1日の仕事を終わって次の日の仕事を始めるまで、ILO(国際労働機関)の規定では11時間のインターバル時間を置かなくてはならないとされているのに、日本の労働法はその規定さえなかったのがやっと定めができたものの、それは努力義務に過ぎなくて8~12時間という幅があり、実際の所、規定があっても8~9時間が多いのが現実である。前日夜中の12時まで働いた人は、次の日は午前11時以降に出勤すればいい(それくらいは連続して休まないと健康を害する)というのが国際標準なのに、わが方は真夜中まで働いても、次の朝、午前9時には出社しなくてはならないのだ。過労死を生む遠因は、こうした余暇の持続時間の短さにもあることを知るべきである。

 休暇に関して言えば、おおかたの日本の勤労者の余暇は、結局のところ細分された「切り身」に過ぎない。大きな魚をいくつにも切り分けたその1片を味わっているだけで、頭もシッポも付いた余暇の「尾頭付き」をついぞ味わったことはないのである。西欧人の夏のバカンスを見ると、4週間は当たり前で北欧のように6週間の連続した休暇が定着している国もある。これくらいの長さがあれば、余暇は仕事と同等の存在感を持つようになり、仕事とは別種の価値観やライフスタイルを実践できる重要なフィールドとなるのである。その体験が仕事も含めた人生全体の活性化に役立つことは言うまでもないだろう。

 5月の大連休は、余暇ビンボーな日本人が、余暇の切り身ではない、アジの干物ぐらいの小さな魚でも一応は尾頭付きの余暇を味わうチャンスである。余暇がまとまって何日も持続することの気分をじっくりと体得したい。そのためには今日はショッピングモール、明日はディズニーランドというようにちょこまかと動き回るのではなく、わが住むコミュニティの春の風景を愛でながら、家族や友人とのんびり「まとまり余暇」の醍醐味を楽しんでみたいものである。


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