#029 あの世につながる余暇(2022年8月14日)

【つぶやき】

8月の中旬はお盆、これこそ日本固有のバカンスだ。
都会に住む若い家族は休暇を取り、一家そろって郷里へ帰る。
田舎には父母ばかりでなく、おじいちゃんやおばあちゃん
あるいは親戚のおばさん、おじさん、いとこ(従弟、従妹)たちも待ち受けていて
正月と並ぶ一族再会の時となる・・・。

それだけではない、お盆は先祖供養の日である。
ご先祖様の霊があの世から帰ってきて
子孫たちと交流し、安堵のもとにあの世へ戻っていく。
ひとときの余暇を介してあの世とこの世がつながる。
こんな意味深い余暇はそんなにあるものではない。

【解説】

 「お盆」という言葉は省略形で、正しくは「盂蘭盆 うらぼん」という仏教用語である。
大もとは仏典を記述する梵語(古代インドのサンスクリット語)でullambanaと呼ばれ、祖霊を死後の苦しみの世界から救済するための仏事のことだ。
漢訳では、この音にそのまま漢字を当てて「盂蘭盆」となった。それが日本にまでも入ってきたのである。陰暦7月13~16日を中心に行われる行事である。
太陽暦に直すと今年は8月10日~13日にあたる(正確にはそうなのだが、そのまま1か月ずらして8月13~16日に行うことが多い)。

 筆者の子どものころには「祖先の霊に供物を捧げ冥福を祈る日」としてどの家でもきちんと行われてきた。
まずお盆の初日の夕方に迎え火を焚く。玄関先で小さな火を焚いて、先祖の霊が帰る家を間違わないように目印にしてもらうわけだ。焚くものは決まっていて「おがら」というものでなくてはならない。
これは麻の茎の皮をむいた中身を乾燥させたもので、細い棒状になっているのを小皿に乗せて燃やす。
子どもは誰も火をつけるのが大好きだから、これは楽しみだった。
今でもお盆時期には花屋やスーパーで「苧殻=おがら」を売っているはずである。

 お盆には仏壇のほかに特別の飾り棚を作ることもあった。位牌を安置した棚にはキュウリとナスに割りばしで足をつけた「精霊馬」を置いたものだ。
キュウリは馬でナスは牛という見立てである。これは先祖の霊の乗り物で、来るときはキュウリ馬でさっそうと、お戻りはナス牛でゆったりとお帰りいただくという趣向である。
飾り棚には小さな膳を供える。小さな茶碗にご飯を盛り、野菜や漬物の皿をつけ、ご先祖様に美味しく召し上がっていただくのである。
仏壇には燈明をともし、お経を読み、線香をあげる。菩提寺のお坊さんがやってきて読経をしてくれることもあった。

 こうしてお盆は、先祖の霊ともどもに過ごす休日なのだった。
実際、昔の人たちは家の中に祖霊たちが大勢やってきてくつろいでいる気配を感じていたのではないかと思う。「みんな仲良くやっているかい?」「ええ、我が家は大丈夫ですよ、ご安心ください」というような対話を交わしていたのかもしれない。
そしてお盆明けの夕方には再び門前で「送り火」を焚いて、帰る霊たちをお見送りするというわけだ。

 多くの人たちがマンション暮らしの今日、玄関先で迎え火を焚くのはちょっとはばかられるし、若い世代の家には仏壇なぞないかもしれない。田舎があれば、家族そろって帰省してお墓参りもできるわけだが、帰るところのない故郷喪失の世代が多くなっているだろう。お盆休みは純粋の休暇になって、海や山に向かう車の大群が高速道路に押しかけ、渋滞何十キロという光景がテレビニュースで報道されるのが今日のお盆である。

 しかし、日本人の生活に長く定着してきたお盆を忘れ去ってしまうのも考えものだ。
お盆という機会に我が家のルーツをたずねて「ふるさと探し」の旅に出てみるのも面白いのではないだろうか。こういう行動は「余暇」がなければできないことで、実際、余暇というものの役割の一つは、今ここにある現実を超え、過去の時空に入り込んで、自分の時間を悠久の時の流れに接続してみることにあるのだ。
私の一生は伸びに伸ばしたところで高々100年、しかし、先祖から先祖へたどっていけば、何百年、何千年という時の累積を確かめることができる。また、方向を未来に向けて、人間の行く末を考えてみることもできる。
余暇はまさしく「永遠」とつながる時間なのである。


Contact Us

東京都日野市百草1002-19
info@yoka.or.jp

Top