【つぶやき】
早春の梅見が終わり、春たけなわとなれば満開の桜の下で饗宴
―これこそ日本の余暇の頂点に違いない。
ハラハラと散りかかる桜吹雪の中をそぞろ歩きする気分は何物にも代えがたい。
お花見は南から北へ時日を替えて連なり、
子どもから老人までともに楽しめるオール・ジャパンの余暇である。
余暇の変貌著しく、世代分断も進む中で、
江戸の余暇を原点とする花見をますます盛んにすることが余暇人の務めである。
さて、今年はどこの桜に会いに行こうか。
【コメント】
俳句で「花」といえば桜のことであり、連句では発句で始まり挙句で終わる一連の展開の終わりから2番目に「花の座」という場面があって、そこで必ず桜を詠むことに決まっている。
一巻のハイライトが桜であり、ここでその巻の雰囲気を捉えたみごとな桜の句をものすることが花の座担当のお役目ということだ。
高校の同窓生6人で連衆を組んで、メールを交換しながら半歌仙(本来の歌仙の半分、18句で完結する連句の形式)を10年も続けている。
このグループの花見の場所は、横浜の中心街を流れる大岡川の岸辺である。隅田川みたいな大河ではないので、両岸の桜が迫ってなかなかいい眺めである。
昨年の春は一同、川を上下する遊覧船に乗って、花筏(水面に散り敷いて筏のように流れていく桜の花びらのこと)をかき分けながら港の風景を楽しんで、その後はオカに上がって銘酒に酔ったのはもちろんである。
「花」という語は、桜に始まって多種多様な花たちを意味してきたが、意味が拡張されて花を比喩的に使う言い方もある。「花をもたせる」の花は「誉れ」ということだし、「言わぬが花」では安全とか平和というようなイメージで「花」が使われている。
また、そのものの精髄、真価と言うほどの意味で「武士道の花」というようにも使う。
さらに抽象度を上げると、かの世阿弥が能の神髄を示した「花伝書」では「花」が能役者の目指すべき美の理想を示す言葉として語られ、「秘すれば花、秘せずは花なるべからず」という有名な一句がある。
その真意はなかなか難しいが、ジイは「秘めたるものこそ美しいのだ」と解釈している。
そういう点では、桜は秘めたるものの反対で、のびのびと開かれ、派手に花びらを散らしている。
それももちろん美しいのだが、まだ寒い早春に、庭の片隅で真っ先に花をつけるオオイヌノフグリの小さなブルーの花なんかが「秘する花」なのかもしれない。
それではいったい「余暇の花」とは何かという問いを出してみたい。余暇の神髄や価値の核心にある「花」はどんな花だろうか。桜のように万人を楽しませる、大らかで開放的で快楽的な雰囲気こそが、余暇を花たらしめる要諦だろうか。それとも人知れずとも、わが道を愉快に前進する秘めたる境地こそが余暇の神髄だろうか。マダムやヒメのお考えを聴いてみたいものだ。
かの漂泊の歌人・西行法師は辞世の歌として、こんな絶唱を残している、
「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」
確かに、いよいよこの世に別れを告げるとなれば、満月の光を浴びながら、ハラハラと舞い散る桜吹雪のもとで微笑みながらあの世に旅立つなんてすばらしい。
ジイもぜひこのような死に方をしたいと思っている。
今年の如月の望月(旧暦2月15日)は、新暦3月25日である。
大岡川の桜はその頃、みごとに咲いていてくれるだろうか。
ただし、まだ今年は、逝くつもりではないが。
《執筆:じぃ》