#068 ファッション その2(2024年5月14日)

【つぶやき】

着ることの楽しみを表現しているのがファッションという世界だろう。

ファッションを余暇に引き寄せて考えてみると、それはいわば衣生活の余暇化ということになろう。

食生活におけるグルメ、住生活におけるインテリアに相当する課題だとも言えようか。

余暇生活自体にもファッションが伴ってもいいと思うが、しかし、日本人の余暇はファッションを論じるほど充実しているのか。

【コメント】

 その昔、まだ日本人の生活に「ゆとり」が行きわたってない時代には、着るものと言えば「晴れ着」と「普段着」しかなかった。祝い事や弔事や「あらたまった」時には一張羅の晴れ着を身に着けなくてはならない。それ以外のあたりまえの日常生活では、着慣れて身についた「ふだん」の服装でいればよく、その見てくれなどを気にすることもなかった。

 1960年代に日本社会に初めて「レジャー」という言葉が登場した。それまでは空いた時間は「余暇」であり、その中身はレクリエーションであって、あえて英語の「レジャー」を余暇の代わりに使う人などなかった。

 新聞の紙面に「レジャー」という用語が大きく掲載されたのは、衣料品メーカーのレナウンの広告に登場した「レジャー・ウエア」が始まりだったというのが定説である。豊かな暮らしには、レジャーという自由で快楽に満ちた時間が必須のアイテムであり、その時間には晴れ着でも普段着でもなく、それぞれの人の好みや個性によってその人らしい服装があるべきだ、だからあなたも、お好きな「レジャー着」をお求めなさいというメッセージである。レジャー着は生活の必要を越えた、それぞれの趣味を土台にした「余分」の衣生活であり、好みという不安定な動因に導かれて、流行り廃りを繰り返す。着ることのファッション性が強調され、必要を越えた消費の拡大がもたらされたというわけだ。

 日本語の文脈における「レジャー」は大量消費社会の旗振り役として導入された。しかし、週休2日制がやっと始まったころの日本は、夏休みさえロクにない過労社会であったし、その後も実態としての余暇はたいして拡大も充実もしていない。にもかかわらず、気分としてのレジャーだけが独り歩きして、一人前に豊かになったつもりでいる。余暇という視点で見直すなら、ファッション以前の普段着の余暇をもう一度点検してみることが必要ではないか。

 とは言え、働くことの意味が根底から問い直されている昨今、労働の対極にある余暇のファッション性を考えることに何ほどか希望を感じることも確かだ。余暇はもっとファッショナブルに論じられていい。制服みたいな余暇、お仕着せの余暇ではなく、その人に身の丈に合って、しかも彼または彼女の魅力があふれ出るような余暇のファッションをだれかデザインしてみてくれないだろうか。

《執筆:じぃ》


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