#077 映画館 その2(2024年8月14日)

【つぶやき】

映画館で映画を観るのと、ネットで配信される映画を眺めるのとは全く違う体験である。

確かに画面を流れる映像は同じかもしれないが、映画館の映画が「現実」であるのに対して、スマホの画面上の映画は「資料」に過ぎない。

たとえて言えば、観光ポスターと現地みたいな関係である。

映画館で観なければ、映画という余暇を自分のものにしたことにはならない。

【コメント】

 余暇という行為は言うまでもなく時間の使い方の一つである。1日24時間をわれわれは仕事したり、食事したり、眠ったり、余暇したりして過ごす。そして時間というものは、ただのんべんだらりと流れていくのではない。必ずその時間と呼応する「空間」が存在する。仕事には工場やオフィスが、食事には食堂やレストランが、睡眠には寝室があるように、余暇にも「余暇の場(トポス)」というものがある。余暇の容れものと言ってもよい。

 我が家を出て駅へとつながる街路も、用事があって急いで通過するときはただの通路に過ぎない。しかし、休日の気晴らしにのんびりと「散歩」という余暇を楽しむときは、街はただの町ではない。商店や公共施設や喫茶店やレストランが織りなす「界隈=かいわい」という余暇空間になる。その空間の良し悪し、バラエティのあるなしが散歩という余暇の充実度に大きく影響することは言うまでもない。

 音楽を楽しむというのも誰もが体験する当たり前の余暇だが、これもどんな空間において楽しむかによって余暇の質が変わってくる。ラジオやCDプレイヤーで、あるいはスマホでも聴けるが、やっぱり音楽ホールに行って大勢の聴衆と共にライブ演奏に没入するのがリアルな音楽体験であることは間違いない。

 映画(劇映画)というのは、空想の物語を楽しむ時間である。これは人間という種だけが持っている想像力が生み出した産物である。物語は本を読んでも、誰かのお話を聴いても楽しめるが、どこの国でもこれを演劇化して「お芝居」として鑑賞する文化を造り出した。この演劇に近代産業技術が作用して生み出したのが映画である。語りと音楽と演劇が融合した夢の世界に飛躍すること―それを可能にする空間が映画館なのである。映画館なき映画なんて、餡子のない饅頭よりももっと価値がない。

 映画が始まれば映画館は真っ暗闇である。それは天と地の分かれる前の混とん(カオス)に帰るということだ。そこから全く新しい世界が創造され、観る人の魂の奥底を揺さぶるよような「物語」に包み込まれる、映画館での体験とはそういうことだ。(もちろん、魂を奪われようもないツマンナイ映画もたくさんある、でもここでは映画館の「原理」を述べているのです。)映画の物語の時間は「映画館」という固有な空間の中で実現する。

 映画館には「観客」がいるということも重要だ。闇の中で誰ともわからず、言葉を交わすこともないが、自分一人だけで勝手に観ているのではなく、共に観る人がいて「共感」が無意識にも共有されているのが映画館という場である。かく申すジイが子どものころはもっと観客の連帯感がむき出しで、暴虐な悪人どもがやりたい放題をする中へ、鞍馬天狗が白馬に乗って颯爽と登場する場面では大きな拍手が沸き起こったものだが、最近、手を叩く人はまずいない。しかし、悲しい場面では、周囲が涙し、すすり泣く気配が伝わってきて、思わずもらい泣きすることはある。これは映画館でなければ味わえない映画のだいご味なのだ。

 映画館自体をテーマにした映画というのもある。その中で忘れ難いのが『ニュー・シネマ・パラダイス』というイタリア映画。(監督はジュゼッペ・トルナトーレ、1988年。)シチリア島の僻村にたった一軒だけある映画館。そこは孤立した村から広い世界への唯一の窓口だった。そこで映画に魅せられた一人の少年の成長物語。彼は成人して映画監督になるという自伝的映画である。映画館というものの文化的な存在理由をよく示してくれている映画だ。

 古いものが次から次へと姿を消していく昨今、街の映画館が生き残っているのは喜ばしい。映画館という余暇のトポスは、萎びかかった感性にカツを入れる場としてコミュニティに欠かせない施設だと思う。何よりこのクソ暑い夏の避暑の場としても最適だ。

《執筆:じぃ》


Contact Us

東京都日野市百草1002-19
info@yoka.or.jp

Top