#079 ペット その1(2024年9月4日)

【つぶやき】

我ら人間族の余暇のパートナーとして欠かせないのがペットである。

愚かしいほど忠実なる犬たちや、気ままで気位の高い猫たちを、
あるいはそのほかいろいろな動物たちを我々は愛玩してきた。

高齢になって子どもたちが去って行った高齢者世帯は、
ペットにかまけて自分の子どものように世話をすることで、
孤独と退屈という病から逃れようとしている。

【コメント】

 わがさんさんくらぶの6月の田植えの日、田んぼのある里山の藪の中を一匹の子猫がさまよって(捨てられて)いた。手のひらに載るほどの大きさだが、生まれて1カ月は経っているだろう、それなりにしっかり歩いている。これを見つけた子どもたちは大喜び、手から手へと猫を抱いて撫でたりさすったりしていたが、やがて「この猫をどうするの?」という話になった。「うちで飼いたい!」と口々に叫ぶ子どもたちに親たちは顔をしかめて首を横に振るばかり。拾い上げた以上は、再び藪に放り投げるわけにはゆかず、話し合いの末、最長老の筆者夫婦が猫を引き取ることになってしまった。幸い、猫好きの友人の援助もあって、猫用の諸道具がそろい、予期しなかった猫と共に在る生活が始まった。

 子猫を子細に点検すると、イエネコの主流であるキジトラで、眼はぱっちりとして(まあ、だいたいどの猫の眼もぱっちりだが)、メスでなかなかの美形である。鳴き声も「にゃあお」と優しく猫らしい(まあ、だいたいの猫はにゃあおと鳴くが)。名前は里山のジャガイモ畑に因んで「ポテト」とした(ポテチ、またはポテとも呼んでいる)。拾ってもうじき3カ月、人懐っこく、家中を走り回り、100円ショップで買ってきた猫じゃらしの小道具で飽きもせずに遊び、スーパーで売っている猫フードをしっかり食べ、体重は拾った時の500グラムから2キロほどになった。誰も教えないのにトイレは指定の場所でちゃんとするし、時々、私の机の上に飛び上がってきてパソコンのボードの上を歩き回り、書いていた原稿を台無しにしたりするが、まあ、猫に消されて困るほどの原稿でもない。家内はすっかり子猫に入れあげて、ポテト、ポテトと呼びまわり、撫でまわし、引っかかれても噛まれても一緒のベッドで寝て、夜中に突然運動を始めて家中を駆け回る猫に起こされて睡眠不足を託ったりしている。

 改めてわがマンションを眺めまわしてみると、小型の愛玩犬を飼っているお宅はずいぶんと増えた。15年前の入居時には、小さな子どもがたくさんいて、乳母車にはバラ色の頬をした赤ちゃんたちが眠っていたものだが、今や乳母車に納まりかえっているのは「お犬様」たちで、それをせっせと押して散歩に行くのはご高齢のご婦人だったりする。エレベーターに乗り合わせて、思わずお犬様をのぞき込んで「キャン!」みたいな高い声で吠えられて、飼い主さんから「ごめんなさい」と謝られたりする。公園に行くといろんな犬を連れた方々が数組集まって互いの犬自慢をしているのを見ることが少なくない。ご近所づきあいは今や犬づきあいが重要な位置を占める。かなりの数の犬がこのマンションに同居しているのは明らかだが、飼い猫の実態は分からない。しかし、スーパーの猫コーナーにそれなりの需要があるのだから、猫のいる暮らしを楽しんでいる人も決して少なくないのだろう。

 イヌと人間の共棲は1万年の歴史があるという。狩猟採集段階にあった人間にとって猟の協力者としての犬の存在は重要な意味を持っていたに違いない。それに比べると飼い猫の歴史は農耕段階になって以来で、だいぶ後のことではないか。農業で得た麦や米は貯蔵される。それを喰い荒らすネズミの発生に手を焼いた人間は、猫族に助けを求めたのである。猫はネズミを捕るために特化した動物で、ネズミさえ食べていれば、猫の栄養は完璧で、ネズミの血をなめていれば、水を飲まなくても大丈夫だとか。それで大航海時代の帆船は必ず猫を連れ込んで備蓄した食糧を守らせたのだと―これは猫好きで4匹も飼っているわが娘から聞いた話。

 犬も猫も、かつては人間の労働生活と深く結びついて生きていたことは確かだ。いまやそのことは遠い昔のお話しとなり、現代の犬猫は、ゆたかな社会に生きる人間たちの余暇生活の友として優雅な生活を謳歌している。

《執筆:じぃ》


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