#084 オンとオフ その3(2024年10月24日)

【つぶやき】

労働と余暇を切り替えるスイッチが、どうやら壊れかけている。

労働に余暇が入り込み、余暇が労働になるみたいな「オン-オフ融合」が新しいライフスタイルであるかのように言う人もいるようだ。

しかし、それは労働が余暇を取り込んで、人々をもっともっと働かせようという資本の陰謀じゃないのか。

【コメント】

 近代社会の典型的な労働と言えば、チャップリンのモダンタイムスみたいに、ベルトコンベアの前で、次々と流れてくる部品のネジを締め付けるような単純作業、労働者はひたすら機械に使われて消耗する。だが、それも終業ベルが鳴ればオシマイ、苦役から解放された後はバーで酒を飲もうが彼女とダンスしようが、一転して自由な自分の時間となる。 近代人は毎日繰り返されるこのオンとオフを生きてきた。

 とはいえ、実態はそんなに単純ではない。労働と余暇の仕分けについて、イギリスの社会学者・スタンリー・パーカーは50年も前に言っている。労働=拘束、余暇=自由という図式は本質を捉えていない。労働の中にも単純労働のような拘束性の高いものもある半面、事務や営業の仕事には、自由な気分で楽しんで出来る時間もありうる。まして創造的な要素のある仕事は遊びと区別がつけにくい。逆に余暇とは言っても、生理的な必要時間や社会的な要務を果たすための拘束的な時間もある(一昔前には休日のお父さんの家族サービスという義務的余暇が話題になった)。要は、労働と余暇は水と油みたいに整然とは分けられず、互いに浸透し合っているというわけだ。

 マダムやヒメの指摘のように、今日の社会では労働―余暇のON-OFFスウィッチは両極間のシールド(遮蔽)が頼りなくなって、言わば漏電の状態にある。オンだかオフだか判然としない、ちょっとは仕事、ちょっとは遊び(余暇)みたいな曖昧な世渡りが広がっている。デジタル社会がそれに輪をかけた。いまでは工場でも事務所でも研究所でも、みんながみんなパソコンとにらめっこして「仕事」をしている。パソコンという道具は使い勝手の幅が広くて、文書の作成や表計算に疲れたら、ちょっとゲームでもという気晴らしができる。コロナ禍以来の自宅勤務の拡大がそんな傾向に拍車をかけた。

 ところがこうした事態を悪用する奴がいるのだ。会社なんかに勤めて拘束されるより、フリーランスで自由に稼いで、らくちんな生活ができますよ、という触れ込みで「プラットフォームワーカー」なる仕事が拡大しているらしい。自分のパソコンにアプリを登録して、指示を受けて、自分なりのペースで働いて、楽しく生きようというのだ。欧米ではウーバータクシーが普及して、スマホで連絡を受けて自分の車でタクシー業ができるそうだが、日本ではこれは認められず、もっぱらレストランの料理を運ぶウーバーイーツが広がっている。ところがこれが低賃金でこき使われるブラック労働、アマゾンの配送員もそうだが、過酷な労働条件の改善を求めて会社に談判しようとしたら、あなたはフリーランスの自立した経営者なんだから、労働基準法の対象となる労働者ではありませんと門前払い。雇い人ではないのだから、最低賃金の適用も労働時間規制も社会保険もない、雇う方としてはこんな便利な仕組みはない。

 労働と余暇とは、やっぱりきちんと切り分けた方がいいのではないか。社会生活を維持するために欠かせない生活インフラの維持や介護や保育や教育の仕事や公共サービス(エセンシャル・ワーク)をもっと大事にして、それらに従事する人の待遇を改善し、その仕事への意欲や体力を支えるために欠かせない「仕事と切り離した」オフの時間を十分に保証すべきではないか。余暇や遊びを仕事(労働)に溶け込ませようとするのではなく、仕事から隔絶した自由の国としての「余暇」を一人一人が確保するのが本来である。長時間労働が蔓延し、ロクに休みも取れない、長期休暇もあってないようなこの国では、漏電しないできっちり労働と余暇を分離できるオン-オフ・スイッチの修繕こそが求められているとジイは考える。 *フリーランスについては岩波書店『世界』11月号の特集「フリーランスを生きる」を参照されたい。  

《執筆:じぃ》


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