#034 余暇の読書案内(2022年10月4日)

【つぶやき】

10月は読書の秋もたけなわ、秋の夜長に本を読みましょう
...というわけでこのコラムに相応しい余暇の本を紹介させていただこう。

といっても「余暇の過ごし方」とか、旅のガイドブックとか、
もろもろの余暇に取り組むための実用書ではなく、
「余暇とはいったい何だろう?」ということを考えるための本である、

ヨゼフ・ピーパーというドイツの哲学者が1965年に書いた『余暇と祝祭』
文庫本で100ページ少しの小さな本だが、
これこそ究極の余暇の本なのだ。

【解説】

 本を読むという行為も余暇の一つのメニューである。学者をもって任じる先生方は本を読むのは仕事かもしれないが、フツーの市民にとって本は余暇の良きパートナーである。本はどこにでも持っていけるし、どんな時間でも(例えばベッドの中でも電車に乗っていてもトイレの便器に座っていても)開くことができ、読む人にとって楽しい本ならたちまちその時間と空間を余暇と遊びの気分に染め上げてくれる。気に入った本に出合えるなら良質のレクリエーションが体験できる。

 本はレクリエーションのためだけにあるのではない。必要な情報を得るためにも本は読まれる。研究でもビジネスでも遊びでも、本には多種多様なインフォーションが含まれている。どこの仕事場へいってもさまざまな参考書が積み上げられていて、情報なしには仕事も進まない。このスタイルの読書は仕事にかかわることが多いわけだが、遊びのインフォメーション本(グルメ本や旅行案内)もある。旅の本などは読んでいるとその土地に行ったような気分になって、それを読むこと自体がレクリエーションになることもある。

 レクリエーションとインフォメーション、それに加えてもう一つ別種の読書がある。それはインスピレーションとしての読書である。つまり、読むことでこれまで考えてもいなかったようなことを深く考えさせられたり、悩み苦しんでいたことについて一すじの光明が見つかったりする。新しい思想をインスパイア(吹き込む)されたり、ひらめきや刺激を与えてくれるような第3の読書がある―読者も時にはそんな経験をしたことがおありだろう。そして余暇についてのインスピレーションを与えてくれる本で、まず挙げなければならないのが、ヨゼフ・ピーパーの『余暇と祝祭』である。(稲垣良典訳、講談社学術文庫)

 ピーパーによれば「余暇」とは、労働と全く対照的な1つの精神的態度を示す言葉だというのだ。労働が活動的で労苦と努力を伴い、社会と深くつながる行為であるのに対して、余暇は「非・活動」「内面的なゆとり」「休息」「委ねること」「沈黙」の態度を表していると彼は主張する。余暇の中にも―特に「レジャー」という用語のイメージでは、活動的で外面的で忙しく、自己主張の強い「おしゃべりな」余暇が浮かんでくるが、ピーパー先生は、そういうのは精神的な態度としてはむしろ労働に近い活動であって、余暇の余暇らしいところはもっと「閑(しず)かな」境地を獲得するところにあると言われている。究極の余暇は「沈黙」にあるのだ、と。

 ピーパーは言う。「余暇とは、物事の真実に耳を傾けるためにはどうしても必要な、あの沈黙のひとつのかたちといえます。」―沈黙こそ余暇の究極の姿であり、その沈黙の中で人は「存在するものに対して自らを開き、受け入れ、耳を傾ける」ことができる。このような余暇の中でこそ、人は世界の真実に迫る直観を得ることができるのだ、と。沈黙の余暇―ピーパーの用語で言うと「コンテンプラチオ」(瞑想/黙想)こそが余暇のもっとも余暇的なあり方だということになる。

 キリスト教会での祈りにしても、禅寺での座禅にしても、既存の宗教とは関係ない瞑想にしても、人が自分の内面世界を深く掘り下げようとすれば「沈黙の余暇」に身をゆだねるしかない。そういうひと時をわずかでも日常生活の中に持つことは、精神衛生の面からも大事なことではないかと思う。「忙しい」ことを有能のしるしのように受け止めるのは浅はかである。中身がないとじっとしてはいられない。空っぽの袋は立っていることができない。仕事で忙しいのはまだ許せるとして、余暇まで忙しくしている現代人は、沈黙の、瞑想の、礼拝の時としての「余暇」をもっと大事にしてもよさそうだ。


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