#018 田舎の余暇と町の余暇(2022年4月24日)

【つぶやき】

イソップ物語の中に「田舎のネズミと町のネズミ」というお話がある。
大要はこんなストーリーである。

田舎のネズミが仲のよい町のネズミを自分の住まいに招待した。
畑の中で麦やトウモロコシや大根をふるまったのだが、
町のネズミは、これをバカにして、自分の所に来ればもっとすごいご馳走があると
田舎のネズミを町に呼んだ。

町のネズミの住まいに行くと、確かに食卓にたくさん食べ物が並んでいる。
喜んで食べ始めると、そこに人間が入って来て、2匹は慌てて逃げだす。
様子を見てまたご馳走にありつこうとすると、またまた人が入って来る。
隙を見て、あたりを警戒しながら食べるので、気が休まることがない。

田舎のネズミは言った。
「ご馳走はあってもこんなに危険なのはごめんだ。
 僕は、田舎の畑でのんびり食べているのが性に合っている。
 今日はありがとう、さようなら」

このお話は、現代人の「余暇」にも当てはまるのではないだろうか。

【解説】

 ひと昔前の余暇のイメージは「田舎の余暇」だった。暇ができたら自然豊かな田舎へ行って、日がな一日のんびり過ごす。山を眺め、川を渡り、野原で休んで一息入れる。食べ物は土地の人が楽しんでいる郷土料理、地酒の1杯も飲めたら言うことはない。夜は素朴な温泉に浸かって、あとはゆっくり眠ろう…。

 余暇は田舎で過ごすというのが当たり前のことだったので、正月とお盆の休みには「うさぎ追いしかの山、小鮒釣りしかの川」のある故郷に帰省するのが一般的だった。毎日忙しく立ち働いている町のネズミたちは、休みとなればお土産を持って懐かしい田舎に帰り、老いた母ネズミや父ネズミとの再会を喜び、子ネズミたちは、せせこましい都会の環境から解放されて、田舎の山と川を舞台に、一日いっぱい遊び暮らすというのが日本のバカンスの原型だった。

 しかし、社会の発展(ほんとに発展なのかは考え直してみる価値があるが)とともに、余暇は次第に「町の余暇」の色彩を濃くしていく。休みとなれば町にしかない余暇施設―かっこよく言えばレジャーランド―に出かけるのが望まれる余暇になって行く。都心のデパート詣でに始まり、映画館から遊園地、動物園、水族館―それらの施設はそれぞれ次第に巨大化して、ついにはディズニーランドが出現する。ディズニーランドこそは夢の国、究極の余暇のあり処になって行く。子どもたちから若者たち、それより上の世代にまでDLに魅せられる人々が増えて行き、年間の入場回数を競う合う風潮さえ生まれている。ディズニーに比べたら田舎なんてつまらない、何の価値もないという町のネズミが増えて、田舎は年寄りネズミの収容所のようにさえなってきた。

 けれども、ここでもう一度考え直してみたい。町の余暇には本当の余暇の喜びはあるのだろうか。確かに感覚を楽しませてくれる刺激は尽きることなく提供される。多種多様な快楽を次々と味わうことができ、この世の憂さを忘れさせてくれる。とはいえ、それは一時のこと、遊園地から一歩外へ出れば、夢の国は失われて、すべてが幻想であったことを思い知らされる。身も心もがっくり疲れて、トボトボをと家路を急ぐ…町の余暇の結末はそんなところではないのか。

 幸か不幸か、コロナ禍によってさまざまな「町の余暇」に制約がかかった。人の集まるところに行って はならないという規制のもとで、盛り場も遊園地も動物園も空っぽになってしまった。人々の余暇を吸収し、凝縮し、1つの巨大な余暇空間にまとめ上げる装置が運行を停止した。余暇は拡散して、一人一人のもとに帰って来た。改めて自分の余暇を見直さないわけにはいかなくなったのだ。

 そうした状況の下で、忘れかけられた「田舎の余暇」への思いが再び芽を吹いてきていることを感じる。集中し、巨大化し、幻想を生み出す余暇ではなく、拡散し、個人化し、生きることの原点に帰ることのできる「静かな余暇」への志向が高まってきていると思われる。田舎のネズミたちが声を高くして町のネズミたちに呼びかける日が来ているのである。

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