【つぶやき】
まとまった余暇ができると旅に行きたくなる人は多いだろう。
2、3日の余暇なら近場の温泉へでも行こうか、
1週間も余暇が得られるならちょっと遠出をして、
この列島の端の方や離れ島を訪ねてみたくなる。
それとも思い切って外国へ…
余暇の中にはどうやら「お出かけ志向」が埋めこまれていて、
余暇が大きくなればなるほど遠くへ、
まだ見ぬ国や地方への思いが深くなる。
余暇とは旅の原動力であり、旅こそ余暇の王様なのだ。
【解説】
今から2千年も昔、いわゆる縄文時代の終わりごろまでは、ヒト族は移動しながら暮らしていたと思われる。当時は「狩猟採集」経済の時代だから、一つ所にじっとしていては暮らしが立たない。獲物を求め、木の実や食用になる植物を追って、あちらこちらを動き回っていた。要するに旅が暮らしの常態だったということになる。縄文時代は1万年も続いていたのだから「旅する本能」みたいなものは、私たちの魂の底の方にがっちりと据えられているはずである。
稲作を中心に農耕の始まった弥生時代以来、ヒト族の定住がはじまった。みんなで協力して田圃を作り、春から秋までの長い時間をかけて稲を育て、コメを取って糧にする暮らしになってからは、田圃をほったらかして勝手に動き回るわけにはいかなくなった。田んぼの灌漑には多くの人手が必要だったので、ムラを作って秩序ある生活をせざるを得ない。それによって収穫は安定して、人口は増えていくが、集団生活に伴う義務や拘束や支配や隷従や身近な人間関係の煩わしさにも悩まされることになった。せめて収穫後の農閑期には、住まいを離れ、近郷の温泉場にでも出かけて行って「命の洗濯」をしようと思ったのは無理からぬことである。近年まで東北の農村では、鍋釜担いで一家そろって温泉詣でに出かけ、自炊しながら一日湯につかってのんびりし、酒を飲んだり歌や踊りに興じて、ひと月も日本式バカンスを楽しんでくるという風習があったものである。
旅に出ると言っても古代、中世の旅は、そんなに簡単なものではなかった。道もきちんと整備されていたわけではなく、険しい山や急流に行く手を阻まれ、交通機関は馬ぐらいしかなく、宿も整備されておらず、追いはぎや山賊が出没することも珍しくなかった。旅とは大変な苦難を伴うものだった。この辺の事情は西欧でも同じで、旅を意味する英語のトラベルはフランス語のトラバーユからきているが、これはもともと苦難という意味、現代フランス語のトラバーユは労働ということである。「旅はつらいけど、泣くのじゃない」という「おおスザンナ」の歌詞はまさしく実感だったのである。
世界に先駆けて旅を安全で楽しいものになしとげたのはわが日本である。徳川時代の長く続いた平和の中で(同時期のヨーロッパは宗教戦争から国土分取り合戦まで戦争に次ぐ戦争だった)、暮らしは安定し、商品が流通し、交通網も整備された。主要な街道には宿場が設けられて、庶民も安心して旅のできる時代になったのである。江戸の長屋の住人も、八つぁん熊さんが連れだって大山詣で(神奈川県秦野の阿夫利神社)に出かけ、帰りは江の島、鎌倉を見物して帰るという1週間ぐらいの旅を楽しんでいる。少しお金をためて、お伊勢参りから京・大阪を回ってくる定番のコースもあった。全行程徒歩(時々馬か駕籠もあり)だから1ヶ月はかかったはずで、現在なら外国旅行に相当しよう。しかし、それぐらいは珍しいことではなく、山形の酒田のある商家のおかみさんは、下男一人を連れて江戸から伊勢、大阪、京都を訪ね、帰りは北陸回りで帰宅する3ヵ月にも及ぶ旅を楽しんでいる。彼女が残した旅行記によると、いかにも楽し気に各地の名所旧跡を訪ね、そこここの珍味に舌鼓を打っている。大都市では芝居はもちろん、遊郭に上がり込んで、芸妓の歌や踊りを見物していて(それ以上のことはしていないようだが)、当時の遊び客が男だけではなかったことを教えてくれる。また彼女は行く先々でお土産を買い、それを飛脚便(今なら宅急便)で次々と留守宅に送ってもいるのだ。現在のツアーに比べて遜色がないし、余暇の長さから言えば現在以上である。江戸の余暇はなかなか大した水準にまで達していたのである。
コロナ禍で移動が制限され、この2年ほど、外国旅行はご法度、国内もせいぜい隣県ぐらいしか行けないという状態が続いた。余暇はそこそこあっても、旅ができないことのつまらなさ、味気無さを多くの国民が味わったはずだ。かくいう余暇翁も2年間、飛行機にも新幹線にも乗っていない。やっと少しコロナの緩みが見えたようなので、この文章がアップされる頃には札幌に向かう機上の人になっているはずである。改めて余暇の味わいとともに、「いい旅」とはどんな旅なのかを考えて来たい。では、オー・ルヴォアール!(念のため:フランス語のサヨナラ、また会いましょう)。