【つぶやき】
余暇ってつまりは遊びでしょ。
どちらも自由で楽しい体験ということ。
でも、余暇と言ったり遊びと言ったり
どうして2つの言葉があるんだろう
どこに違いがあるのだろう。
遊びと言えば子どものすること、
働く大人は遊んじゃおられんから余暇なのかな。
あるいは余暇は余暇時間、そこで行われるのが遊び活動、
つまりは余暇が容れ物で、盛られた中身が遊びなんだ。
余暇と遊びはワンセット、すてきなカップルというべきか。
【解説】
この問題を考えるためには、「外延」と「内包」という一組の概念と使うとわかりやすい。哲学の用語としては、内包(intension)が、ある概念が持っている共通の性格を指すのに対し、外延(extension)は、その概念に含まれるものにはどんなものがあるかを示す役割をもっている。
例えば「猫」という概念の内包は、ニャーニャー鳴いてネズミを追いかける毛におおわれた生き物ということだし、猫の外延は、三毛猫から黒猫からヤマネコ、どら猫、ペルシャ猫…という猫族の広がりを意味している。1つの概念は「内包」としての独自の意味を持ちつつ、その適用範囲を「外延」として定めていると言ってもいい。
この論理をそのまま適応すると、実のところ「余暇」にも「遊び」にも内包もあれば外延もあることになる。だが、ここではちょっと使い方を変えて、余暇と遊びの核心にある、いちばん大切な要素―それは自由とか快楽とかいうもので人間がいきいき生きて行く上で不可欠の価値―を踏まえて、余暇がその外延を示し、遊びがその内包を具体的に表していると考えてみよう。
あっさり言えば、余暇というお皿に遊びという果物を盛るというイメージで考えてもらえるといい。小さなお皿にはキンカンやサクランボぐらいしか載せられないが、お皿が大きければ、リンゴでもミカンでも果てはバナナでもメロンでもさまざまな果物を盛ることができる。外延が広がれば内包も豊かになる道理である。
この比喩で主張したいのは、われわれ日本人の余暇という入れ物の小ささである。働く人の余暇時間は先進国で最少、子どもたちだって、大人たちの働き主義の影響をモロに受けて、自由な時間を制限されて、宿題だの塾だの部活だの(部活って自由じゃないよね)に追い立てられている。
その分、余暇に盛られるべき遊びは貧弱になり、部屋の片隅でスマホをいじって気晴らしをするぐらいしかできていない。 豊かな遊びのためにもっと余暇を!というのが日本余暇会の主張である。